新古今の景色(87)院政期(62)歌林苑(52)融通無碍の空間

摂家相続流の前大僧正を初めとする藤原氏、共に戦場に散る運命にあった源平武士、六条藤家を代表する歌人、下級貴族、年配の女官、神官そして遁世僧、身分・階層の敷居が極めて高い院政期にあって、このような多様な人々が、歌風、流派を超えてひたすら歌への精進を願って集い、時には西行や御子左家を代表する寂蓮(藤原俊成の甥)、藤原信隆(定家の異腹の兄)も通って、それぞれの違いを超えて交歓する場が20年以上も維持されていたとは。

 

このような融通無碍の空間が実現した要因としては、偏に主唱者の俊恵の歌人としての力量と拘りのない人柄が大きかったと思われる。

 

その俊恵は、勅撰集『金葉和歌集』撰者で『俊頼髄脳』を著わした六条源家を代表する歌人の父・源俊頼の死後、17歳で東大寺に入るも、さしたる修行もせずに奈良を去り、40代半ばに白河の自坊を歌林苑と称して、流派に拘らない多くの歌人に開放して歌合や月例の歌会を催しながら、永暦元年(1160)『清輔朝臣家歌合』に最初の出詠をしている。

 

ということは、俊恵は父源俊頼の後を継いで歌の家「六条源家」の継承を選ばなかったのだ。そして権門の東大寺も早々と去り、遁世僧というしがらみのない一歌人の立場で、宮廷や権門の歌合から声のかからない歌人達が切磋琢磨し、かつ交歓する場を設けて、地下の僧俗達の歌壇を形成する方向を選んだのである。

 

もう一つ見逃せない要因として、煌びやかな殿上や貴人の邸宅ではなく、うら寂れて朽ち果てそうな俊恵の自坊が醸す空気を挙げたい。

 

これは私の主観かもしれないが、財も有力な後ろ楯もない遁世僧が所有する、普通なら恥ずかしくて人も呼べないようなあばら屋なら、互いに見栄を張ることもなく、胸襟を開けそうだし、また、そういう自坊に多くの歌人を招く俊恵の飾り気のなさ自体が魅力だったと思う。もし私がその頃生きていたら、殷富門院大輔や二条院讃岐達に連なってみたかった。

 

参考文献:『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集』    

          片野達郎・松野陽一 校注 岩波書店刊行