新古今の景色(42)院政期(17)歌林苑(7)俊恵(7)弟・祐盛(2)

俊恵の異母弟・祐盛法師は12才で比叡山で出家し、その後は伝法潅頂の秘法を伝授されて阿闍梨に登り詰めた高僧であるが、俊恵が主唱する「歌林苑」の会衆の一人となり『千載和歌集』に3首入集したが、『新古今和歌集』には一首も入集していない。

 

また、俊恵の撰した秀歌撰の『歌撰合』を批判した『難歌撰』を著わしたと伝えられているところに兄弟間の複雑な感情が窺えるようだ。

 

鴨長明はそんな祐盛法師に関する挿話を「無名抄」に次のように記している。

 

『無名抄 14 千鳥、鶴の毛衣を着ること』から、

 

“歌林苑の歌合で「寒夜千鳥」という題が出されたとき、会衆の祐盛(ゆうせい)法師が「千鳥も着けり鶴の毛衣」と詠んだところ、参会者が珍しいと言い合っている中で、素覚という歌人が何度も何度もこれを繰り返して「とても面白い。ただし、寸法が合わないのでは」といったことから座がどよめき、あとは興ざめして笑いも鎮まってしまい、当の祐盛法師は「まことに秀句ではあるが、こんなことになってしまっては、その甲斐もない」と語っていました。”

 

『無名抄 9 鳰(※1)の浮巣』から、

 

“建春門院の殿上歌合(※2)で「水鳥近馴」の題で源頼政(※3)が詠んだ

 

子を思ふ 鳰(にほ)の浮巣のゆられきて 捨てじとすれや 水隠(みがく)れもせず

【親鳥が子を思う鳰の浮巣が波に揺られて漂ってきて、それを見捨てまいとするのだろうか、親鳥は水中に潜って隠れようともしない】

 

を、判者の藤原俊成が「着想がめずらしい」と勝の判定をした。

 

これを知った祐盛法師は、「作者が鳰の巣作りの実態を知っていればこんな歌になるはずはない。あの浮巣は揺られて漂うようなものではない。海の満潮、干潮を知っている鳰が巣作りするときは、葦の茎を中に入れて、さらにそれを拡げて、そのまわりに巣をつくるから、満潮時には上へあがり、干潮時には下がるものである。

ただ揺られ動くのであれば、風が吹いた時はどこまでも揺られ出て、大きな波にも砕かれ、人にも捕られてしまう。しかし、歌合の座にその事を知る者が一人もいなくて、それで勝ちと決まったのでは、何を言っても始まらない」と申したそうです。”

 

(※1)鳰(にお):水鳥のかいつぶりの古名。湖沼・河川で巧みに潜水して小魚を捕食。巣は折り枝・葦・水草などで水上に造り「鳰の浮巣」と呼ばれる。

 

(※2)建春門女院の殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2年(1170)10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成

 

(※3)源頼政:長治元年(1104)~治承4年(1180)。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫