新古今の景色(48)院政期(23)歌林苑(13)源頼政(2)

 

 音にのみ聞き聞かれつつ過ぎ過ぎて 見きなわれ見きその後はいかに(頼政

 【再会を待ち望んで、堪えがたい思いをしております】

 

 恋ひ恋ひて見きわれ見えきその後は しのびぞかぬる君はよにあらじ(空仁)

 【しかし、あなたはそれほどでもないのではありませんか】

 

このうち解けた贈答歌は歌林苑の会衆同志の源頼政と空仁法師(※1)の間で交わされたものである。

 

『源三位頼政集』によると、兼ねてから一度会いたいと思っていた空仁法師に、歌林苑で催された人丸(麻呂)影供(※2)でやっと対面する機会を得た頼政だが、実は空仁法師の側も自分に会いたいと思っていたことが判明して、後日に交わしたのが上記の贈答歌であった。

 

歌林苑は歌の流派、年齢、身分・階層に関わりなく、ひたすら和歌への情熱、精進への思いの強い、どちらかと言えば年配者が中心の在野の歌人達が集まって、月例あるいは臨時の歌会、人丸影供、そして、時に遠方に去る会衆との別れを惜しむ歌会などが持たれていた。

 

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上図は、人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』 藤原隆章筆 「芸術新潮2018年9月号より」

 

ところで『花にもの思う春~白洲正子新古今集』で著者の白洲正子は、

〔俊成ほどの人物に『いみじき上手』と賞讃された頼政も、新古今集にはわずか三首しかえらばれていない。新古今の目的が、武家へ対する抵抗にあったためであろうが、それにしても、少なすぎる。頼政は治承4年(1180)、新古今ができる二十五年も前に死んでいるから、今様風の新しさに欠けるところがあったのかもしれない〕

と、嘆いている。

 

これは私の推測だが、後白河法皇の寵姫で平家一門の建春門院を祖母とする後鳥羽院には、自分は平家の血筋をひいているという思いから、以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げて宇治河の合戦で敗死するも、頼朝挙兵から鎌倉政権樹立に至る引き金を引いた源頼政は受け容れがたかったのではないか。

 

因みに、頼政を高く評価した藤原俊成が撰した『千載和歌集』には14首入集している。

以下に、頼政の『千載和歌集』、『新古今和歌集』入集歌からそれぞれ1首ずつ引用した。

 

        『千載和歌集』  巻第一 春歌上

38 天(あま)つ空ひとつにみゆる越(こし)の海の 波をわけても

   帰(かへ)るかりがね

   【空と海とがひとつになって見分けがつかぬ、渺々(びようびよう)たる越の

    海の、波をわけても帰って行く雁であることよ】

 

        『新古今和歌集』 巻第三 夏 歌

       夏ノ月をよめる

267 庭の面(おも)は まだかわかぬに 夕立の 空さりげなく 澄める月かな

    【庭の面はまだ乾いていないのに 夕立を降らせたことはうそのような空に

     さりげない様子で澄んだ月がでているよ】

 

(※1)空仁法師:空人とも、俗名清長、大中臣氏、少輔入道と号す、生没年未詳、定長男、法輪寺僧、永暦元年(1160)『清輔家歌合』に参加、歌林苑会衆、西行・西住とも交友を持つ、『千載和歌集』初出、4首入集。

 

(※2)人丸(麻呂)影供:柿本人麻呂の肖像を掲げて、人麿を供養しつつ行う歌会。

 

参考文献:『鴨長明』三木紀人 講談社学術文庫

                  『花にもの思う春~白洲正子新古今集白洲正子 平凡社