ところで俊恵の六条源家三代の流れを見て私が感じたのは彼の生きた時代は「下降の時代」ではなかったかという思いだ。
(https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2020/06/10/104117)
2020年の現代においても「親の代より子の代の方がより豊かに」という時代はあっという間に終わってしまったが、しかし、いくら俊恵が嫡子ではないとは言え、祖父は正二位大納言、父は従四位上木工頭、そしてその次男に産まれた俊恵といえば、17才で父と死別して東大寺の僧となり、寺院で弟子となった公卿、殿上人の師弟の呼称である公名(きみな)を太夫公(たゆうのきみ)と称したものの、その後の俊恵の消息は伝わっていない。
その俊恵の存在が知られるようになったのは、40代に入った保元元年(1156)頃から治承にかけて京都白川の自坊に、藤原清輔・源頼政・藤原隆信・賀茂重保・寂蓮・鴨長明。二条院讃岐・小侍従・殷富門院大輔など広い範囲にわたる僧俗の会衆(えしゅう)を集め、月例、臨時の歌会を開催し、『歌苑抄』などの私撰集を編纂する活動を展開して、六条藤家から御子左家への交代期にあった歌壇に「歌林苑」と称する地下(※)の歌人集団の一大勢力を形成したことによる。
ここで、俊恵と時代を共にしながら俊恵同様に「下降の時代」に生きなければならなかった藤原俊成と鴨長明に触れてみたい。
藤原俊成は、藤原北家御子左流の従三位権中納言・藤原俊忠の4男として生まれたが、10才で父と死別して藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗って国司を歴任するも位階は停滞した。
その後の藤原俊成は、藤原基俊に師事して歌の道を究める一方で美福門院加賀と再婚して定家をもうけ、仁安元年(1167)に念願の公卿(非参議)となった翌年に御子左流に戻して俊成と改め、藤原清輔が没した安元3年(1177)の翌年に九条家歌壇に師として迎えられ、その後の俊成の歌人として、歌壇のリーダーとしての活躍は知られるとおりである。
次に、俊恵の弟子であり、師について最も多くの消息を残した鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として生まれ、高松院の愛護を受け、応保元年(1161)には12才で従五位下に叙爵されるという恵まれたスタートを切った。しかし、18才で父が没した後は一族の鴨祐兼との後任争いに敗北。その後についてはここで述べるまでもない。
つまり、俊恵、藤原俊成、鴨長明とも当時としては恵まれた出自とは云え、既に親の代には下降が始まっており、そこに強力な後ろ盾の父を失ってからは苦渋の道を歩む事になった。
ここで、俊恵・俊成・長明が生きた時代のポイントとなる出来事を記述してみた。
永久元年(1113) 俊恵、源俊頼の3男として生まれる。父俊頼59才
永久2年(1114) 藤原俊成生まれる。10才にして父の権中納言俊忠と死別。
元永元年〈1118〉 平清盛生まれる(父:忠盛と母:白河院寵愛祇園女御の妹)。
〃 西行(佐藤義清)生まれる。
保元元年(1156) 保元の乱。この頃から俊恵の歌林苑が始まったとされる。
保元3年(1158) 二条天皇即位
平治元年(1159) 平治の乱
応保2年(1162) 藤原定家生まれる。父は藤原俊成(49才)
治承4年(1180) 2月 安徳天皇即位
〃 4月 以仁王の平家追討令旨
〃 5月 源頼政敗死(歌林苑の会衆)
〃 6月 福原遷都
〃 8月 源頼朝伊豆で挙兵
養和元年(1181) 1月 平清盛没(64才)
文治元年(1185) 3月 安徳天皇入水、平家滅亡
建久元年(1190) 2月 西行没(73才)
建久2年(1191) この頃俊恵没と伝えられる(78才)
○青い文字は新古今歌人に関する事項
(※)地下 (じげ):清涼殿に昇殿を許されない官人、または家格。6位下以下。
あるいは宮中に仕える者以外の人々の称。