『新古今和歌集』 巻第十七 雑歌中
俊恵法師身まかりてのち 年ごろ(長年)つかはしてける薪(たきぎ)など、
弟子どものもとへつかはすとて
1667 けぶり絶えて 焼く人もなき 炭竃(すみがま)の あとのなげきを
たれかこるらむ
【煙も絶えて、焚く人もいなくなったあと、だれが炭竃の投げ木を伐って
くるのでしよう。房の主である俊恵法師がお亡くなりになったあとの、
弟子の皆さんがたの生活の資を、だれが集めてくるのでしようか。
心配なので、薪をお送りします】
上記は賀茂重保が俊恵法師亡き後の歌林苑を心配して詠んだ歌である。
俊恵と親交を深め、歌林苑の会衆であり支援者であった賀茂重保は、賀茂別雷社(上賀茂神社)神主・重継の息子として元永2年(1119)に生まれ、父の跡を継いで従四位・賀茂別雷社神主を務め建久2年(1191)に73才で没した。
歌人としての賀茂重保は、仁安1年(1166)に「経盛家歌合」、嘉応2年(1170)に「実国家歌合」、承安2年(1172)に「広田社歌合」などに出詠しつつ、治承2年(1178)3月には藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開催したのを初め、自らも自邸で歌合・歌会を催して賀茂社歌壇を形成し、『千載和歌集』初出で7首入集、『新古今和歌集』に2首入集。
ここで賀茂重保の『千載和歌集』入集歌から1首採り上げてみた。
『千載和歌集』 巻第三 夏歌
郭公の歌とてよめる
150 ほととぎすしのぶるころは山びこのこたふる声もほのかにぞする
【時鳥がまだ忍び音に鳴くころは 山彦のこだまもあるかなきか、
ほのかに聞こえることだ】
俊恵の晩年の消息を伝えるものとして、賀茂重保が養和2年(1182)に上賀茂神社で催した尚歯会(※)が挙げられる。これは高齢を言祝ぐ催しで、唐の白楽天に倣い主催者を含めて7人で催すことから、重保の呼びかけに応じた参会者は、祝部成仲・勝命・俊恵・片岡(賀茂)家能・祐盛・藤原敦仲の6人であった。この時の俊恵は70才で、記録の上でこれ以降の俊恵の消息は把握されていない。
(※)尚歯会(しょうしかい):高齢者を祝う会。敬老会。また、老人を請じて詩歌を作り遊楽を催す会。七叟と言って主人を入れて7人の老人が集まり、それ以外は相伴(しょうばん)として列せしめた。中国で845年白楽天が催したのが初め。
参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社
片野達郎・松野陽一 校注 岩波書店刊行