新古今の景色(79)院政期(54)歌林苑(44)祝部成仲~乱世の93歳

祝部成仲(はふりべのなりなか)は、日吉禰宜成美の息子として康和元年(1099)に生まれ、建久2年(1191)に93才で没している。日吉禰宜総官、正四位上大舎人頭。歌人としては家集『祝部成仲集』を著わし、勅撰集では『詞華集』初出、『千載和歌集』7首入集、『新古今和歌集』5首入集している。

 

ところで、私が大いに注目するのは、武者台頭の動乱期に祝部成仲が93歳の長寿を全うしたことであり、祝部成仲が生きた時代を探る手がかりとして『新古今和歌集』入集歌から次の歌を引用した。      

 

                                    『新古今和歌集』 巻第17 雑歌中

      教長卿(※)名所の歌よませ侍りけるに  

1607 うち寄する波の声にてしるきかな 吹上の浜の秋の初風

     【うちよせる波の音ではっきりわかるかな 吹上の浜に秋の初風が

      吹いているのだ】

 

この歌は、成仲が藤原教長の要望に応じて読んだものであるが、教長については既に(https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2021/04/21/172651)で述べたように、師実流大納言忠教と大納言源俊明の娘との間に生まれ、参議左京大夫正三位に昇りつめながら、崇徳院の近臣であった事から保元の乱後に出家したものの捕らえられて常陸へ配流された。

 

つまり、祝部成仲が生きた時代は、天台座主慈円が『愚管抄』に「保元元年(1156)7月3日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハオコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ」と記したように、保元の乱を挟んだ乱世の時代であった。

 

そして、特筆すべきは、そのような時代の中で、成仲が、歌林苑で親交を結んだ俊恵、賀茂重保と文治4年(1188)に九十賀を催している事である。この時、永久元年(1113)生まれの俊恵は76歳、元永2年(1119)生まれの賀茂重保は70歳(当時は数え年)。

 

動乱の時代に93歳の長寿を全うするとはどのような人生だったのか、祝部成仲の足跡を私は大いに識りたいと思うのだが、残念ながら日記や随筆が残されていないので、ここでは、『千載和歌集』と『新古今和歌集』の入集歌から彼の人生を偲んでみたい。

 

          『千載和歌集』 巻第一 春歌上 祝部宿禰成仲

39  帰(かへ)る雁いく雲井とも知らねども心ばかりをたぐゑてぞやる

    【帰る雁がたどる路は、どれほど遠い雲路ともわからないが、わが心の

     思いだけを一緒に連れ添わせて遣ることだよ】

 

          『千載和歌集』 巻第十一 恋歌一

                          祝部宿禰成仲

690 君恋ふる涙しぐれと降りぬれば 信夫の山も色づきにけり

    【あなたを恋い慕う涙が時雨のように降りますので、信夫の山が

     紅葉するように 我が忍ぶ思いの袖も紅の涙で色づいてしまいましたよ】

 

          『千載和歌集』 巻第八 羈旅歌 

       夜逢坂(あふさか)の関を過ぐとてよめる  祝部成仲

522 逢坂(あふさか)の関には人もなかりけり いわ(は)まの水の

    もるにまかせて

    【夜の逢坂の関には(関を守る)人もいないことだよ、岩間の水の滴り

     洩る(守る)のにまかせて】

 

           『千載和歌集』 巻第十六 雑歌上

       和歌の浦をよみ侍りける

1051 ゆく年は浪とともにやかへるらん 面変(おもがわ)りせぬ和歌の浦かな

     【過ぎゆく年は浪とともに返るのだろうか、表情も変わらず若々しい、

      和歌の浦の景色であることだ】

 

           『新古今和歌集』 巻第二 春歌下

        花の歌よみ侍りけるに

115 散り散らず おぼつかなきは 春霞 たなびく山の さくらなりけり

   【散ったか散らないのかはっきりしないで気懸かりなのは、

    春霞がたなびいている山の桜だよ】      

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

    『中世社会のはじまり』五味文彦著 岩波新書