新古今の景色(70)院政期(45)歌林苑(35)素覚

素覚法師の俗姓は藤原家基。長家流、伯耆守藤原家光男の息子で生没年未詳。伊綱(歌林苑会衆)及び、尾張(※1)の父。出家前の官位は刑部少輔従五位下。永暦元年(1160)~嘉応2年(1170)頃に出家したとされる。

主な参加歌合は、出家前の永暦元年(1160)「大皇大皇宮大進藤原清輔歌合」、出家後の嘉応2年(1170)「住吉社歌合」及び承安2年(1172)「広田社歌合」。勅撰集入集は、藤原家基として『千載和歌集』初出、『千載和歌集』5首入集、『新古今和歌集』2首入集。

 

素覚についての詳細を知る手がかりは殆ど現存していないが、次の歌から出家前には藤原家基として白河院に仕えていたことが窺える。

 

          『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

       述懐の歌よみ侍りける時、むかし白河院につかうまつりける事を

                          思い(ひ)でてよめる     藤原家基 法名素覚

1081 いにしへも底に沈みし身なれども猶(なほ)恋(こひ)しきは白川の水

     【昔も沈淪不遇の身ではあったが、それでもやはり恋しく偲ばれるのは

      白河院の御代のことだ】

 

この歌を私なりに深読みすれば「白河院に使えた時も出世の見込みもなく不遇ではあったが、それでも下級貴族なりに仕事と働く場所はありそれなりに満たされていた」か。

 

ここで、素覚の他の勅撰集入集歌を以下に記しておきたい。

 

         『千載和歌集』 巻第三 夏歌 藤原家基

173 浮雲のいさよふ宵(よひ)のむら雨(さめ)に を(お)ひ風しるく

    にほふたち花

    【浮雲がただよう宵に降る村雨の中で、追風にもはっきりと薫る橘の香りよ】

 

         『千載和歌集』 巻第十六 雑歌上 

       月ノ歌十首よみ侍りける時よめる

990 小夜千鳥吹飯(ふけゐ)の浦にを(お)とづれて絵島が磯に月かたぶきぬ

    【夜が更け、千鳥が吹飯の浦に鳴きながら渡ってきて、波路の彼方の絵島の磯

     に月がかたぶいたことだ】

 

         『新古今和歌集』 巻第十 羈旅歌

      初瀬に詣でて帰さに、飛鳥川のほとりに宿りて侍りける夜、

      読み侍りける

986 ふるさとへ 帰らむことは 飛鳥川 渡らぬさきに 淵瀬たがふな

    【いよいよなつかしい故郷へ帰るのは明日だ。飛鳥川よ、私が渡らないうちに

     淵瀬を変えるようなことはしないでおくれ】

 

         『新古今和歌集』 巻第二十 釈教歌

      悲鳴〔口+幼〕咽(ひめいいうえつ) 痛恋本群(つうれんほんぐん) 

      【『摩訶止観(※2)』巻第七下の句。生死を解脱できない衆生

       悲しみ  を、群を離れて鳴く鹿に譬える】

1956 草深き 狩場の小野を 立ち出でて 友まどはせる 鹿ぞ鳴くなる

     【草深い狩場の野を出て、友をまどわせる、群からはぐれた鹿の

      鳴いている声が聞こえるよ】

 

さて、前大僧正覚忠から登連・道因・空仁・素覚と歌林苑会衆の出家・遁世僧のプロフィールを観てきたが、関白家の出自で天台座主を務めた前大僧正覚忠を除くと下級貴族・神祇官が占めている。

 

以上から、これまで朝廷や摂関家及び高級貴族の警護役に過ぎなかった粗野な武士階級が急速に政治権力の一角を担うまで台頭する「武者の世」の到来に直面して、長い間安定していた下級貴族の将来は暗澹としたものになった事が読み取れる。

 

その先駆者は、伝統ある武勇貴族で鳥羽院の北面を務めていた佐藤義清(後の西行)が、同年の成り上がり武士の平清盛が同じ鳥羽院の上流北面を担い、その後急速に権力を掌握して行く様を間近に眺めて、自らの行く先は修羅場と見極めて若くして出家した事からも推し量れるのでは無いか。

 

(※1)尾張(おわり):皇嘉門院に勤める女房歌人。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』に1首入集。

 

(※2)摩訶止観(まかしかん):仏書。594年、随の智顗(ちぎ)の講述を潅頂が筆録。十巻。天台三大部の一。天台宗の勧心(かんじん)を説き修行の根拠となる。天台止観。天台摩訶止観。

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社