空仁の消息を伝えるほぼ唯一とも云える西行の語りを記した『残集』から、あくまでも西行の視点で空仁像を描いてきたが、最晩年における西行が空仁を偲んで語った次の言葉はなかなか意味深長である。
申(まうし)続くべくもなきことなれども、空仁が優(いう)なりしことを
思ひ出でてとぞ、
この頃は昔の心忘れたるらめども、歌は変(かは)らずとぞ、うけたまはる、
あやまりて昔には思ひあがりてもや
【わざわざ言い伝えるほどのことでもなけれども、和歌・連歌についてのこれま
での言葉は、空仁が「優」であった事を思い出して語ったものだ。しかし、今
は歌は相変わらず上手であるが、初心を忘れてしまったように思える。昔の
歌のうまさは、物のはずみで、つい心が高ぶっていたからであろうか】
なるほど、空仁が晩年に詠んだと思われる次の二首からは、出家前の西行の心を動かした張り詰めた思いを感じる事は出来ない。
『千載和歌集』 巻第十八 雑歌下
山寺に籠もりて侍りける時、心ある文を女のしばしばつかはしければ
よみてつかはしける
1196 を(お)そろしや木曾の懸路(かけぢ)の丸木橋ふみ見るたびに
を(お)ちぬべきかな
【恐ろしい事だ、木曾の桟道の丸木橋は、踏んでみる度毎に落ちてしまい
そうだ(文を見るたびに堕落しそうだ)】
『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四
877 秋風の憂き人よりもつらきかな 恋(こひ)せよとては吹かざらめども
【秋風は、つれない人よりも思いやりがないものだなあ、恋をせよといって吹
くわけではないのであろうが、秋風が吹くと人恋しくてならないよ】
そう言えば、西行の出家は西住と法輪寺の空仁を訪れた翌年の保延6年(1140)の秋であったが、遁世後には鞍馬、東山に庵を結び、その後は30年近く高野山に腰を据えていた。
しかし、治承3年(1179)11月に清盛が後白河院政を停止したことから伊勢国二見浦の山寺に拠点を移し、後に伊勢大神宮に奉納する企画として、俊成・定家・家隆・慈円・寂蓮・祐盛・蓮上・寂延らの歌を収載した『二見百首』を編んでいるが、そこには近くに住む空仁は含まれていない。
ここで、私の推測を述べると、空仁と西行の出家の動機は大きく異なっていたので、晩年の空仁のあり方が西行のメガネに叶わなかったのは致し方ない。
西行の出家・遁世は極めて自主的・意志的で遁世後の行動も明確な方針に基づいているが、空仁の場合、突発的な出来事で前途が狂わされ、失意の底で遁世を選んだ。
ここで再び、西行の出家に大きな影響を与えたとされる空仁の歌をふりかえると、
『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中
世を背かんと思ひ立ちける此(ころ)よめる
1119 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになれば悲しかりけり
【このように憂き我が身であるが、すっかり世を捨て切ってしまおうと思う
状況に立ち至ると悲しい】
この歌からは、追い詰められて現状から逃れるための遁世を願う心境が窺えるが、とても西行のような意志的・積極的な心境は読み取れない。
むしろ晩年の空仁の歌からは、押し潰されそうな重荷から解放された軽さが立上ってくるように思える。
片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行