新古今の景色(68)院政期(43)歌林苑(33)空仁(3)西行の出家

 

出家前の西行と西住が空仁を訪れて過ごした法輪寺は、嵯峨の大井川の近くにある虚空蔵菩薩を本尊とする寺で、この時、空仁が籠もって法華経の暗誦に励んでいたように、法輪寺は初学の人が籠もって学問の成就を祈る寺としても知られていた。

 

ところで、出家前の空仁が詠んだ次の歌は西行の出家に大きな影響を与えたと伝えられている。

 

        『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

      世を背かんと思ひ立ちける此(ころ)よめる

1119 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになれば悲しかりけり

     【このように憂き我が身であるが、すっかり世を捨て切ってしまおうと思う

      状況に立ち至ると悲しい】

 

この歌を詠んだ時の空仁の俗名は大中臣清長、父の定長は権大副従四位下、父の伯父で養父の公長は伊勢神宮の最高位祭主を務めていた。

 

ところが公長は伊勢で起こった殺人事件の責任を問われて伊勢神宮祭主の執務を停止された。その間、京都の司法側は公長の責任を訴えた神人側の言いがかりとみていたようだが、審議を先延ばしている間に公長は病死し、その養子の定長も神事への奉仕を禁じられていたため、世に知られていた名家は一気に崩壊し、その時、六位であった清長は失意のどん底に突き落とされたのである。

 

何事も起こらなければ、清長はいずれ父の養父公長・そして父の定長の後を継いで伊勢神宮の祭主を受け継ぐはずであったが、突発的な殺人事件の責任を問われ大中臣家は神事への奉仕を停止されたため、清長は神祇官の道を捨てて出家を志向するに至り、武官への道を捨てて出家しようとしていた義清(西行)はこの歌に自らの心を重ね合わせたのであろう。

 

そして出家した西行は次の歌を詠んでいる。

         『山家集』 中 雑

       世を遁れける折(おり)、ゆかりありける人のもとへ言ひおくりける

726 世の中をそむきはてぬといひおかん 思ひ知るべき人はなくとも

    【たとえ私の心を知ってくれそうな人はいなくとも、言い残しておこう】

 

ところで、空仁の歌人としての素質は、父・定長の養父で伊勢神宮の祭主であった公長から受け継いだとされている。その公長の歌は『金葉和歌集(※1)』に5首、『御裳濯和歌集(※2)』に7首入集している。

 

(※1)金葉和歌集(きんようわかしゅう):源俊頼の撰により編纂された勅撰和歌集。全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集に当たる。

 

(※2)御裳濯和歌集(もすそわかしゅう):鎌倉中期に成立した、伊勢内宮祠官の寂延撰『御裳濯和歌集』は、伊勢神宮関係の和歌を中心として、伊勢国に関係のある人物の詠作を類聚した私撰集である。西行勧進「二見浦百首」や伊勢内宮法楽「四季題百首」などを含み、和歌史的に貴重な価値をもつ。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

        片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『西行覚書』粟津則雄 思潮社

     『西行と清盛~時代を拓いた二人』五味文彦著 新潮選書

     『西行全家集』久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫

 

参考web:

https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100972 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86