『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中
題不知
1143 大井河となせの滝に身を投げて早くと人にいはせてしがな
【大堰川の戸無瀬の滝に投身して、あの人は早く世を捨てたと
人に言わせたいものだ】
上記は空仁法師(※1)の『千載和歌集』入集歌の一首であるが、註記によると、「投身は厭離(えんりまたはおんり、汚れたこの世を厭い離れること)には極端な表現だが古今集以来の措辞。なかなか踏み切れない出離への願望。作者は義父の伊勢祭主公長(父定長の養父)の殺害事件に関連して出家したと推測されている。出家後の空仁の入った大井川嵐山近くの法輪寺の庵には出家直前の西行・西住が訪れて出家の手本としたことが知られる『聞書残集』(※2)」とある。
出家前の西行は西住(※3)を伴って法輪寺の庵を度々訪れて空仁と交流し、その後に出家を決意したと伝えられている。
ここでは空仁の法輪寺の庵を訪れて語り合った後に帰路の渡し場で空仁・義清(西行の俗名)・西住が連歌を通して名残を惜しんだ場面を『残集』(※2)から引用してみた。
いまだ世を遁れざりけるそのかみ、西住具して法輪にまゐりたりけるに、空仁
法師、経覚ゆとて、庵室に籠もりたるけるに、物語り申て帰りけるに、船の渡
りの所へ空仁まで来て、なごり惜しみけるに、筏の下りけるを見て 空仁
はやく筏はここに来にけり
薄らかなる柿の衣着て、かく申て立ちたりける、優に覚えけり
大井川上に井堰(いせき)やなかりつる(残22)
かくて、さし離れて渡りけるに、ゆゑある声の嗄れたるやうなるにて、大智徳
勇健(だいちとくゆうけん)、化度(けど)無量衆(むりょうしゅう)と読み
出したりける、いと尊くあはれなり
大井川船に乗り得て渡るかな(残23)
西住付けけり
流れに棹をさす心地して
心に思ふことありて、かく付けなるべし
【意訳:出家前の西行(俗名:義清)が西住と共に法輪寺を訪れた時は、空仁
法師が庵室に籠もって法華経を一心に覚えているところであった。その後で3
人で語り合い、暇を告げて西住と大井川の渡し場に着いた頃に、空仁法師が名
残を惜しんで追ってきた。そして二人が乗る筏が下ってきたのを見て、
はやく筏はここに来にけり
と、詠みかけてきた。
薄い柿の衣で詠みかける空仁の立ち姿を優に感じた義清は、
大井川上に井堰(いせき)やなかりつる(残22)
と、後を続けて川を渡ると、空仁が独特の味のある嗄れ声で、「大智徳勇健
化度無量衆」と経を読み始めたので、殊の外あわれを覚えた義清が、さらに
大井川船に乗り得て渡るかな(残23)
と、詠むと、それに感応した西住が
流れに棹をさす心地して
と、心に思うことを付けたという。】
(※1)空仁(空人とも)法師:生没年未詳。俗名は大中臣清長(おおなかとみのきよなが)。定長の息子。出家時は神祇官の二等官の神祇少副で伊勢神官と関わりが深かった。出家後は少輔別当入道と号して法輪寺の庵に住み西行、西住、源頼政、藤原実定らと交友をもつ。また、西行の出家に影響を与えたとされ、保延6年(1140)に出家前の西行とかわした歌や連歌が『残集』(※2)にみられる。永暦元年(1160)『清輔家歌合』に参加。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、4首入集。
(※2)『聞書残集』:『残集』とも。西行の晩年の歌を没後に知友が纏めたもの。西行の家集である『聞書集』の末に付加されるべき家集である。
(※3)西住:俗名:源季政(すえまさ)。生没年未詳。兵衛尉からから遁世。西行の出家後も行動を共にした。鳥羽院の北面で同僚であった西行と親交を結んだとされる。
片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行