新古今の景色(67)院政期(42)歌林苑(32)空仁(2)出家を固める西行

大井川船に乗り得て渡るかな(残23)

    西住付けけり

 流れに棹をさす心地して

    心に思ふことありて、かく付けなるべし

と、ここで、船が岸を離れて西行と西住は空仁と別れるはずであった。

 

が、西行と西住の出家への思いを見抜いた空仁から、出家を促す意味を込めて唱えた法華経の「「大智徳勇健 化度無量衆」を聴かされた西行が、

 

      なごり離れがたくて、さし返して、松の下にをりゐて、思ひ述べるけるに、

 

大井川君がなごりのしたはれて井堰の波の袖にかかれる(残24)

【お別れするのが名残惜しく、あなたの事が慕わしく思われ、大井川の井堰の波の

 ように涙が袖にかかりました】

 

    かく申しつつ、差し離れて帰りけるに、いつまで籠りたるべきぞ

    と、申しければ、思ひ定めたることも侍らず、

    ほかへまかることもやと、申しける、あはれに覚えて

    【と、詠んだ後、空仁に対して、いつまで籠もっているのかと問うたところ

     「特にはっきり決めた訳ではないが、他所へ行くこともあるかも」との答え

     が返ってきたので、再び義清が次の歌を詠んだ】

 

いつか又めぐり逢ふべき法(のり)の輪の嵐の山を君し出でなば(残25)

【いつかまた廻りあうことができましよう、仏法の輪が転じるように、嵐山の

 法輪寺をあなたがいつかお出になったならば】

 

     返り事申さむと思ひけめども、井堰の瀬にかかりて下りにければ、

     ほいなく覚え侍りけん

 

  京より手箱に斎料(※1)を入れて、中に文をこめて、庵室に

  さし置かせたりける返り事を、連歌につかはしたりける 空仁

結びこめたる文とこそ見れ(残26)

     この返り事、法輪へまゐりたる人につけて、さし置かせける

里とよむことをば人に聞かれじと

 

 

既に出家への思いを募らせていた佐藤義清(後の西行)と源秊政(後の西住)は、法輪寺の空仁との交友・連歌を通して出家への決意を固めたとされ、西行の出家はこの空仁訪問の翌年の保延6年(1140)10月15日であったが、西住も西行に相前後して出家したとされる。

 

(※1)斎料(ときりょう):僧侶の食事に用いる金。

 

 

引用文献:『西行全家集』久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行 

参考文献:『西行覚書』粟津則雄 思潮社