大井川船に乗り得て渡るかな(残23)
西住付けけり
流れに棹をさす心地して
心に思ふことありて、かく付けなるべし
と、ここで、船が岸を離れて西行と西住は空仁と別れるはずであった。
が、西行と西住の出家への思いを見抜いた空仁から、出家を促す意味を込めて唱えた法華経の「「大智徳勇健 化度無量衆」を聴かされた西行が、
なごり離れがたくて、さし返して、松の下にをりゐて、思ひ述べるけるに、
大井川君がなごりのしたはれて井堰の波の袖にかかれる(残24)
【お別れするのが名残惜しく、あなたの事が慕わしく思われ、大井川の井堰の波の
ように涙が袖にかかりました】
かく申しつつ、差し離れて帰りけるに、いつまで籠りたるべきぞ
と、申しければ、思ひ定めたることも侍らず、
ほかへまかることもやと、申しける、あはれに覚えて
【と、詠んだ後、空仁に対して、いつまで籠もっているのかと問うたところ
「特にはっきり決めた訳ではないが、他所へ行くこともあるかも」との答え
が返ってきたので、再び義清が次の歌を詠んだ】
いつか又めぐり逢ふべき法(のり)の輪の嵐の山を君し出でなば(残25)
【いつかまた廻りあうことができましよう、仏法の輪が転じるように、嵐山の
法輪寺をあなたがいつかお出になったならば】
返り事申さむと思ひけめども、井堰の瀬にかかりて下りにければ、
ほいなく覚え侍りけん
京より手箱に斎料(※1)を入れて、中に文をこめて、庵室に
さし置かせたりける返り事を、連歌につかはしたりける 空仁
結びこめたる文とこそ見れ(残26)
この返り事、法輪へまゐりたる人につけて、さし置かせける
里とよむことをば人に聞かれじと
既に出家への思いを募らせていた佐藤義清(後の西行)と源秊政(後の西住)は、法輪寺の空仁との交友・連歌を通して出家への決意を固めたとされ、西行の出家はこの空仁訪問の翌年の保延6年(1140)10月15日であったが、西住も西行に相前後して出家したとされる。
(※1)斎料(ときりょう):僧侶の食事に用いる金。
片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行