寂蓮は34才で出家する承安2年(1172)年前後から治承4年(1180)6月の福原遷都の頃までは難波の地への塩湯浴み・高安の都・大神神社・いわれの池・磯上寺・人麿の墓所・北山の二条院の墓所・布引の滝・住吉神社等へ旅をし、その後は、建久元年(1190)から建久2年にかけて、西国・讃岐の崇徳院の御所跡を訪れた後に、東国の手越し(駿河国)・箱根山などへ足を向け、行く先々で歌を詠んでいる。
そんな中から先ずは贈答歌を採り上げて寂蓮の旅を偲んでみたい。
① 難波塩湯浴みの旅での師光(※)との贈答歌、『師光集』より。
定長、なにはのかたにしほゆあみにまかりて、かれより申しおくりてはべる
【定長が浪速の方に塩湯浴みにでかけて、彼より送ってきた】
たづねてもなどかはとはぬ蘆のやの なだのしほやのあきのたびねを 定長
【私が塩湯浴みに訪れたのに、どうして尋ねようとしないのか。この芦屋の灘の
塩焼小屋の秋の旅寝を】
しほのゆにまかりたりしを、この人もとはず侍りしが申したりし
【塩湯浴みに出向きましたが、私も定長を尋ねなかったので申し送った】
きみにこそならひそめしかたびねするあきのあはれをとはぬ心は 師光
【あなたによって初めて教わったことよ。旅寝をする秋の趣きある宿を
尋ねない心を】
「難波」は摂津の国の歌枕でもあるが、この歌を師光と交わした時は承安2年(1172)の寂蓮が出家前の「定長」と称した時の歌である。
(※)師光:藤原師光。後白河院近臣。平治の乱(1159)後に出家して西光と称す。鹿ヶ谷で平家打倒の謀を巡らして平清盛に殺された。
② 奈良の在原業平の住居跡を殷富門院大輔(※)と共に訪れた時の贈答歌、
『殷富門院大輔集』より。
ならのほとけをがみにまゐりたるついでに、ざい中将のだう、おきつしら
なみ心にかけけるすみかなどみて、具したる人のもとへつかはしし
【奈良の仏像を参拝したその折に、在原業平の堂や、褄が「沖つ白波」を
心にかけた住いなどを見て、一緒に行った人のところへ詠み送った歌】
しほれたる花のにほひをとどめけん なごり身にしむすまひをぞ思ふ
【萎れた花が香りを後に残しているのであろう。そうした名残がしみじみと感じ
られる住いを懐かしく思うことよ】
かへし 入道じゃくれん
いにしへのなごりもこひしたつた山、よはにこえけんやどのけしきは
【昔の名残も懐かしく思われることよ。寂しい立田山を1人で夜中に越えたと
いう人の住いの様子は】
(※)殷富門院大輔:殷富門院(後白河院皇女子内親王)の女房。生没年未詳、正治
2年(1200)頃70歳位で没。歌林苑会衆。家集『殷富門院大輔集』。『千載和
歌集』初出、『新古今和歌集』10首入集。
③ 出雲大社参詣の旅
文治6年(建久元年)、寂蓮入道思ふ事ありていづもの大社へまうでて
かへりてのち、ふみやりたる返事にかくもうしたり 慈円
【文治6年、寂蓮入道が願うことがあって出雲大社へ参詣して帰った後、
手紙を送った返事にこのように申してきた】
むかし思ふ八雲のそらにたつものは 色をわくべき君がおもかげ 慈円
【昔のことが思われる。須佐男之男命が出雲の国で「八雲立つ」と詠んだ、その
空に立つものは顔色を見分けることができたあなたのことを思いうかべることよ】
返事 寂蓮
とまりゐる心につねにかかりしは八雲の空に出でし面かげ
【目にとまり、心の中にいつも気にかかっていることは、この出雲の国の
「八雲立つ」空にあなたの面影が念頭に浮かぶことよ】
この2人のやりとりからは、須佐之男命の「八雲立つ」の詠歌を踏まえて、寂蓮が出雲の地を訪れた様子を思い描いて慈円が詠っているのが感じられる。
(※)慈円:久寿2年(1159)~嘉禄元年(1235)享年71歳。摂家藤原忠通
の息子。兼実の弟。良経の叔父。大僧正。天台座主。和歌所寄人。家集『『拾玉集』。『愚管抄』を著わす。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』92首入集。
出雲大社へまいりける道、美作国に懐綱が侍りける、かくとききて、
などともなはざりしなどいひつかはして
【出雲大社へ参詣する途中、美作国(岡山県)に懐綱がおりますと
こう聞いて、どうして連れだって行かないかなどと言いやって】
いにしへをおもひいづものかひもなくへだてけるかなその八重垣を
【遠い昔のことを思い、その出雲の地を訪れようと念願しながらその機会もな
く、幾重にも作り設けた垣根が障害となっていることだなあ。】
かへし 懐綱
思ひあればへだつる雲もなかりけりつまもこもれるいづもやへがき
【出雲の地を訪れようという念願があれば、その障害となる雲も吹き払われる
ことだ。須佐之男命の妻・櫛名田比売を籠もらせるために雲が幾重にも垣根を
作りなしたことよ】
この贈答歌は出雲大社参詣の途中美作国に滞在していた懐綱に同行を求めた時の贈答歌である。
- 出雲大社参詣から下向した後の兼宗(※)との贈答歌、『寂蓮集』より。
出雲の大社より下向して侍りける比、兼宗のもうしつかはしたりける
【出雲の大社から下向しておりました頃、兼宗が申しお遣わしに
なった】
かくばかりふかきおもひをしるべにて 八雲のそこに尋ね入りけん
【これほどに深い思いを導きとして、八雲立つ奥深い地まで尋ね入ったことであ
ろう】
返し 寂蓮
きく人も八雲の底にしる物を たづぬる道ぞまよふ成りける
【出雲のことを聞いて知識としては奥深い所と分かっているのに、尋ねてみて
道に迷った事だよ】
この贈答歌は兼宗の「八雲のそこに尋ね入りけん」を受けて寂蓮は「八雲の底にしる物を たづぬる道ぞまよふ」と応じて、歌道の奥深さを詠み交わしている。
(※)兼宗:長寛元年(1163)生まれ、仁治3年(1242)80歳で没。師実流内大臣藤原忠親の息子。前大納言正二位。『千載和歌集初出、『新古今和歌集』2首入集。
参考文献:『日本の作家100人 人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版