34才の藤原定長が承安2年(1172)に出家をして寂蓮と称した後の消息について、後鳥羽院に仕えて和歌所の事務長を務めた源家長は『源家長日記』で次のように記している。
「世の事わりは昔もおぼしめししりけめども、此比ぞみちみちにつけてはいづれも御めぐみはけちえんに見え侍る。歌よみどもめし出だされ、思ひ思ひの朝恩にあづかる人々かずしらず。入道寂蓮は、よをそむけて後、都の外にいほりむすびて、苔の袂も年をかさねつつ後のよの事のみいとなみ侍りけんに、めしいだされてつねにはべれば、はりまの国明石のうらのほとりにりやぅ所たまはりて、よのまじらひにほこりて侍り」と。
『家長日記』によると、出家した寂蓮は父・叔父・息子達のように権門官寺に入寺することなく、都の外に庵を結んで、世俗のしがらみからはなれて歌に精進しつつ後世を祈って過ごしていたところを、後鳥羽院に召されて和歌所の寄人として務めているうちに、院から播磨国の明石の浦の領所を賜ったのである。
ところで、家長の記した「都の外」とは山城国の歌枕に詠まれた嵯峨のことで、その頃の嵯峨は皇室・貴族の別業(別荘)や寺院が営まれ、多くの遁世者の住処としても知られていた。
その嵯峨の庵とはどのような住み心地であったのであろうか。寂蓮はかねてから親交を結んでいた慈円と文治5年(1189)の秋に、次のような贈答歌を交わした事が『寂蓮法師集』に収められている。
さがに住みける比、九月ばかりあさましきほどに世にしらぬ風吹きて、
よもぎの庵たのむかげなく成りにけるを見て、殿法印に申しける
わがいほは都のいぬゐ住みわびぬ うき世のさがにおもひなせども
【私の庵は都の北西にあって住みにくくなってしまったことよ。無常の世の中の
ならわしと思ってみても】
返し 慈円
道をえて世をうぢ山といひし人の跡にあとそふ君とこそなれ
【仏道の教えを悟って、世間の人が世を憂しとして住む宇治山だといった人
(喜撰(※))のように、あなたも足跡を追って加わりなさいよ】
この二人の贈答歌は『古今和歌集』並びに『小倉百人一首』に入集した喜撰法師の次の歌を本歌取りしている。
わが庵(いほ)は都の辰巳しかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり
【私の庵は都の東南にあって、このように心静かに住んでいる。それなのに、
世の中を憂きものと思って住む宇治山と、人は言っているそうだ】
ところで寂蓮が「あさましきほど世に知らぬ風吹きて」と記した強風は、兼実の日記『玉葉』には、文治5年8月20日夜に吹き荒れた暴風で、これによって都の人家の多くが損壊し、藤原道長の創建した鴨川西辺の法成寺の破損が特に酷かったと記されているので、寂蓮の庵が大きな被害を被ったことは想像に難くない。
(※)喜撰(きせん):平安時代初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙のひとり。生没年未詳。伝未詳。『古今和歌集』に一首入集。
参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
谷知子編 角川ソフィア文庫