新古今の景色(72)院政期(47)歌林苑(37)参河内侍(1)寂念の娘

 

院政期は出家・遁世の時代でもあった。父あるいは夫が遁世したとき妻子の人生はどのような影響を受けるのか、は、私の関心の一つである。

 

例えば、保延6年(1140)、23才の若さで突然出家遁世して周囲を驚かせた西行には妻と幼い娘が居たが、西行の妻は夫の意志を受け容れて西行が拠点とした高野山のふもとの天野という比丘尼(出家して具足戒を受けた子女、尼僧)などが住むところに遁世したが、幼い娘は将来の事も考えて家督を譲った弟に任せていた。しかし、3年ほど経て西行が様子を見に行ったところ、娘が粗末な身なりで下働きをさせられていたのを見て心が痛み、娘に出家を諭して母と同じ庵に住まわせた、と、鴨長明の『発心集』は記している。

 

歌林苑会衆の参河内侍(三河内侍 みかわのないし)は、保延6年(1140)頃、藤原為業(法名:寂念(※1))の娘として生まれた。父の寂念は藤原北家長良流、丹後守で藤原俊成の岳父であった歌人の藤原為忠の次男で、同じく出家した兄の寂超・弟の寂然と共に大原三寂・常磐三寂と呼ばれ、特に寂超と寂然は西行との親交で知られていた。

 

父の出家に伴い参河内侍は兄の権僧正範玄の猶子となり、藤原定隆と結婚して建春門院新中将を育てる傍ら、二条天皇の内侍、松殿基房の女房、後白河院女御琮子に仕えて兵衛佐とよばれ、夫の定隆没後は女御の兄権中納言実綱と再婚、公仲・七条院大納言を生み、正治2年(1200)には61才で生存したと伝えられている。

 

この世を見限って出家遁世した寂念と異なり、権僧正となった息子範玄と娘の参河内侍は、乱世の世を肯定的に受け容れて生きたようだ。わけても、参河内侍は結婚においても、働く女性としても、前向きに人生を切り拓いて生きたように私には見える。

 

(※1)寂念:平安時代後期の僧・貴族・歌人。俗名は藤原 為業(ふじわら の ためなり)。生没年未詳、永久2年(1114)頃生まれ、寿永元年(1182)頃まで存命とされる。藤原北家長良流、丹後守・藤原為忠の次男。官位は従五位上・皇后宮大進。保元3年(1158)頃に出家。同じく出家した兄弟の寂超・寂然と共に大原三寂・常磐三寂と呼ばれた。通称は伊賀入道。若い頃より父・藤原為忠が主催する歌合に度々参加し、九条兼実や藤原重家・俊恵・源頼政平忠度等とも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。『千載和歌集』初出、1首入集。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 方丈記・発心集』三木紀人 校注 新潮社版

     『西行と清盛~時代を拓いた二人』 五味文彦著 新潮選書

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

              片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行