新古今の景色(92)院政期(67)寂蓮の遁世(5)出家・遁世の時代

寂蓮の出家の背景については、歌の家「御子左家」の確立を目論む藤原俊成の要望で養子になったものの、俊成が49歳の時に誕生した定家こそ後継者にふさわしいと自ら身を引いたとの理由が一般的であるが、それはそれとして、私は当時が「出家・遁世の時代」であったことを挙げたい。

 

寂蓮が生きたのは、崇徳・近衛・後白河・二条・六条・高倉の諸帝がめまぐるしく入れ替わった時代で、その背景には、それまで公卿(※)から相手にもされなかった国守(受領)が地方支配で蓄えた財力を元手に「成功(じょうごう)」という名の買官で上皇に取り入って中央政治の舞台に登場して公卿を追い落とし、さらに皇室・摂関家・源平両氏の対立が絡んで保元・平治の乱を勃発させ、気が付けば平氏の専横に翻弄される朝廷と、事態の収拾を図ることが出来ずに手を拱いているだけの公卿が残ったのである。

 

もはや公卿にとっては長子に家督を継がせるだけが精々で、2男、3男以下の男子に養子の当てがあれば上々で、官位をあてがうだけの威力も財力も無く、そんな中で家の威光を恃める者は権門官寺の僧侶としての出世を求めたのであった。

 

寂蓮が保延5年(1139)に醍醐寺阿闍梨俊海を父として生まれたことは既に述べたが、俊海の父で寂蓮には祖父にあたる従二位・権中納言藤原俊忠は、藤原道長の六男・権大納言長家を祖父とする公卿で17人の息子を得ながら、そのうちの寂蓮の父・俊海以下の13人は権門・官寺で出家して僧界の階段を登っている。

 

また、寂蓮の息子4人のうち、若狭守まで昇りながら武士の妻を犯してその夫に惨殺された長男を除いた3人が権門官寺で出家しているだけでなく、藤原俊成にも園城寺権大僧都延暦寺権律師など僧籍の息子が居たことが知られている。俊成の家督を継いだのは成家で、歌道の御子左家を継ぐのは定家というわけである。

 

 

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(※)公卿(くぎょう):公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議及び三位以上の朝官)との併称。

 

参考文献:『日本歌人講座第三巻 中世の歌人Ⅰ』 

                                           文学博士久松潜一 文学博士實方清編  弘文堂

 

                 『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版