新古今の景色(71)院政期(46)歌林苑(36)藤原教長~崇徳院歌壇の残像

藤原教長(のりなが)は天仁2年(1109)に師実流大納言忠教(※1)と大納言源俊明の娘との間に生まれ、参議左京大夫正三位に昇りつめたが、崇徳院(※2)近臣であった事から保元の乱後に出家したものの捕らえられて常陸へ配流、応保2年(1162)召還され、治承4年(1180)頃没したとされる。法名観蓮。治承2年(1178)『別雷社歌合』出詠。家集『貧道集』。『才葉集』、注釈書『古今和歌集註』を著わす。『詞華集』初出、『千載和歌集』10首入集、『新古今和歌集』1首入集。

 

藤原教長の勅撰集入集歌には崇徳院が催した『久安百首』(崇徳院御百首とも)の出詠歌が少なくない。その中から幾つか採り上げてみたい。

 

          『千載和歌集』 巻第三 夏歌

              崇徳院に百首の歌たてまつりける時よめる 前参議教長

155 たづねても聞くべきものを郭公(ほととぎす) 人だのめなる

    夜半(よは)の一声

    【尋ねても聞くべきことだったのに。ほととぎすよ、人を当てにさせる

     夜半の一声だったよ】

 

          『千載和歌集』 巻第十三 恋歌三

       百首歌たてまつりける時、恋の心をよめる 前参議教長

800 恋(こひ)しさは逢ふをかぎりと聞ききしかど さてしもいとど思ひ添ひける

    【恋しい気持ちは逢えば落ち着くものと聞いたけれど、逢ってから後の方が

     一層思いの増すものであるよ】

 

次の『千載和歌集』釈教歌の教長の1217、1218の前には1216に崇徳院御製歌が配列されているのでそのまま引用。

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       百首歌めしける時、普門院、弘誓深如海(つくぜいじんにょかい)の

       心をよませたまうける           崇徳院御製

1216 誓ひをば千尋の海にたとふなり つゆも頼まば数に入(い)りなん

     【観世音菩薩の誓願を、千尋の深海に譬えている。ほんの少しでも

      頼めば、救われる衆生の数の中に入るであろう】     

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       崇徳院に百首歌たてまつりける時、華厳経の心をよめる 前参議教長

1217 はかなくぞ三世(よ)の仏と思ひける 我身ひとつにありと知らずて

     【愚かなことに、仏は三世諸仏として様々に在るものと思っていた。

      我身一つの中に在るとしらないで】

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       即身成仏の心を

1218 照る月の心の水(みづ)にすみぬれば やがてこの身に光りをぞさす

     【照る月が心の水に澄んでいるので、それがそのままこの身に光を射し

      さながら仏になったようだ】 

 

         『新古今和歌集』 巻第一 春歌上

       崇徳院に百首歌たてまつりける時、

       春の歌        前参議(まえのさんぎ)教長

13 若菜つむ袖とぞみゆる春日野の 飛火(とぶひ)の野べの雪のむらざえ

   【若菜を摘む人の白い袖のようだなあ、春日野の飛火野の野辺の、

    雪がむら消えしている様は】

 

ところで、『千載和歌集』は寿永2年(1183)後白河法皇院宣により藤原俊成が文治3年(1187)に撰したもので、一条天皇以後200年間の『後拾遺集』に洩れた歌より撰集されている。

 

その背景を念頭に置くと、『千載和歌集』撰進下命者の後白河法皇が、骨肉相食む皇位争いから讃岐に配流せざるを得なかった同母兄の崇徳院の出詠歌23首、及び『久安百首(崇徳院御百首)』から教長を含む少なからぬ出詠歌を容認したことに私は感慨を覚えずにはいられない。

 

自らは和歌よりも今様に耽溺した後白河法皇は、29才で即位するまで「即位の見込みのない皇子」として長い間部屋住み(居候か)を余儀なくされていた。その中には「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と自分を酷評した兄の崇徳院との同居も含まれていた。

 

千載和歌集』を透して、兄崇徳院歌人としての才能を評価し、かつ当時の歌壇を代表した「崇徳院歌壇の残像」を記しておきたいとする後白河法皇の思いを読み取るのは「後白河院狂い」を自認する私の深読みであろうか。

 

(※1)大納言忠教:藤原忠教。承保元年(1076)~永治元年(1141)、享年66才。関白太政大臣師実の息子。正二位大納言。『堀河院艶書合』作者。管弦に秀でる。『金葉和歌集』初出、『千載和歌集』1首入集。

 

(※2)崇徳院(すとくのいん):第75代崇徳天皇。讃岐院と呼ばれる。元永2年(1119)~長寛2年(1164)、享年46才。鳥羽天皇第1皇子、母は待賢門院璋子。実父が曾祖父白河院であることが誘因となり保元の乱を起こして讃岐に配流となり配所で没す。『久安百首』主催。『詞花集』下命者。『詞花集』初出、『千載和歌集』23首入集、『新古今和歌集』7首入集。

『久安百首』の出詠歌人は、崇徳院、藤原公能、藤原教長藤原顕輔、藤原秊通、藤原隆季、藤原親隆、藤原実清、藤原顕広(俊成)、藤原清輔、待賢門院堀河、上西門院兵衛、待賢門院安芸、花園左大臣家小大進の14名。

 

 参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社