新古今の景色(84)院政期(59)歌林苑(49)下級貴族(3)源有房~斎院式子内親王に長官として仕える

源有房の生没年は未詳。伯太夫と称す。神祇伯顕仲の息子、あるいは仲房の息子か。仁安2年(1167)斎院長官、正五位下。久安5年(1119)『山路歌合』出詠。『千載和歌集』初出、3首入集。

 

ところで、源有房が務めた斎院長官の斎院とは、平安時代から鎌倉時代にかけて下鴨神社上賀茂神社の両賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または女王、及びその居所を指す。

 

ここで注目すべき事は、源有房が仁安2年(1167)に長官を務めたときの斎院は、『新古今和歌集』の事実上の編纂者であった後鳥羽院が最も敬愛した伯母で、後白河天皇皇女の式子内親王であった事。式子内親王の『新古今和歌集』の入集歌は49首にのぼる。

 

とは言え、源有房が長官を務めた頃の式子内親王は15歳(数え年)位の深窓のお姫様、身分が違い過ぎて歌合などで同席することもなかったであろうが。

 

源有房の『千載和歌集』入集歌は次の通り。

 

        『千載和歌集』 巻第二 春歌下

94 一枝は折りてかへらむ山ざくら 風にのみやはちらしはつべき

   【山桜を一枝は折って帰ろう。どうせ散る桜ゆえ、風にばかり

    まかせきってよいものか】

 

        『千載和歌集』 巻第十一 恋歌一

680 洩らさばや忍びはつべき涙かは 袖のしがらみかくとばかりは

    【わが涙はこらえきることのできる涙であろうか、そんなものではない、

     涙の川を堰き止める袖の柵(しがらみ)はこれほどであると、この恋の

     思いを打ち明けたいものだよ】

 

        『千載和歌集』 巻第十五 恋歌五

933 思ふをも忘るる人はさもあらばあれ憂きをしのばぬ心ともがな

    【こんなに思慕しているのに、私を忘れるような人はもうどうでもよい、

     つれない人を恋い慕わない心でありたいものだなあ。】

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

            片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店