新古今の景色(81)院政期(56)歌林苑(46)惟宗広言 和歌~今様(2)後白河院の愛弟子へ

【広時(広言の誤記)、『(後白河院の)御歌も聞かぬ田舎より上りたるが、かく露違わぬ事の、ものの筋あわれなること(驚嘆すべき筋合いのことがら)』]とて、流涕するを(涙を流すのを)、人々これを笑ひながら、皆、涙を落とす。】

 

上記は、自ら今様狂いを公言する後白河院が著わした『梁塵秘抄口伝集 巻第十』で、院御所の法住寺殿(現在の三十三間堂付近)の広御所に今様の名手を集めた「今様の会」で、惟宗広言(ひろとき)が田舎者の自分がこんなに晴れがましい場に招かれてと感涙を流す姿を記したものである。

 

さらに後白河院の筆は進んで、惟宗広言が今様の歌い手として有望な素質を持つだけでなく、自分の弟子であると次のように公言している。

 

【中頃(今と昔の中間頃)、広言・康頼(※1)こそ、具してうたう者にあれ。これら(広言・康頼)は旧(もと)より歌うたひ、知りたる歌も多かりしかど、旨ところにて(大事なところ)、いとしもなきつしやうの(格別のこともない)節などありしかば、具してうたふに聞き取りて直すもあり(広言・康頼が後白河院の歌を聞いて会得し、自身の欠点を直すこともあり)、また、(後白河院が)教ふる歌もあれば大様はわが様にありて、みな我が違わぬ弟子どもと思ひ合ひたれど、違へる事も多かり。・・・・・広時(広言の誤記)は声色あしからず、うたひ誤ちせず。節は達者に似する所あり。心敏く聞きとることもありて、いかさまにも上手にてこそ・・】

 

私の勝手な思い込みで意訳しすぎると後白河院の言わんとするニュアンスからかけ離れるのおそれがあるので、中途半端な引用になってしまった事をお許し願いたい。

 

先回では歌人としての評価の高かった崇徳院時代における惟宗広言の歌人の側面を採り上げたが、今回は、今様の名手の後白河院の時代に、惟宗広言が今様の歌い手として後白河院から評価されただけでなく、自らの筆で愛弟子であると公言される存在になっていたかに焦点を当てた。

 

以下は私の推測だが、代々大宰府府官の家柄の惟宗広言が、後白河院の面識を得たのは、院の近臣であった吉田経房(※2)が大宰権帥だった頃の文治2年(1186)に催した「吉田経房家歌合」に広言が出詠したことが端緒だったのでは、と。

 

ところで文治2年に催された「吉田経房家歌合」には、六条藤家の中心歌人藤原経家や御子左家を担う藤原定家の他に、中原清重、大江公景など後白河院近臣の諸太夫(五位の下級貴族)や地下人出身者などが参加していた事で、俊恵の「歌林苑」に共通する新古今歌壇への過渡期の歌合であった事が注目される。

 

それにしても権力者がめまぐるしく変わる乱世において、芸術と芸能に自らの才能を磨き上げて、75歳の人生を生き抜いたと伝えられる惟宗広言の身の振り方は見事と云う他はない。

 

(※1)康頼:平康頼。検非違使左衛門尉。鹿ヶ谷の陰謀連座して鬼界ヶ島に流され、入道した。帰洛後『宝物集』を撰した。

 

(※2)吉田経房(よしだ つねふさ):康治2年(1143)生、正治2年(1200)没、享年58歳。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の子。正二位権大納言。文治2年(1186年)「経房家歌合」、建久6年(1195年)「民部卿家歌合」主催。日記『吉記(きちき/きっき)』を著わす。『千載和歌集』初出、4首入集。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』榎 克朗 校注 新潮社版