新古今の景色(76)院政期(51)歌林苑(41)藤原盛方~平忠盛の歌才を受け継いだ孫

藤原盛方は保延3年(1137)に生まれ、治承2年(1178)に享年42才で没した。盛方のように生没年がはっきりしているのは身分の高い出自を物語っており、彼の父は中納言顕時、母は平忠盛(※)の娘。従四位下中宮大進、出羽守。仁安から治承(1166-78)頃に歌林苑や平氏系歌合に参加。治承2年(1172)『広田社歌合』出詠。『千載和歌集』初出、4首入集、『新古今和歌集』1首入集。

 

ところで、盛方の母方の祖父・平忠盛崇徳院が召した『久安百首』の給題当初に、藤原公行(三条公行)、藤原公能、源行宗、藤原教長藤原顕輔等と共に名を連ねる程の歌人であったが、その才能は息子の清盛ではなく外孫の盛方に受け継がれたようだ。

 

以下に藤原盛方の『千載和歌集』及び『新古今和歌集』の入集歌を引用したい。

 

           『千載和歌集』 巻第三 夏歌

222 岩間(いはま)よりを(お)ちくる滝のしら糸は むすばで見るも

    涼しかりけり

    【岩間から落ちてくる滝の白糸は手に掬わずに見ているだけでも

     涼しく感じることだ】

 

           『千載和歌集』 巻第四 秋歌上

    摂政前右大臣家に歌合し侍ける時、野ノ径ノ秋ノ夕といへる心をよめる

255 夕されば萱がしげみになきかわ(は)す 虫のねをさへわけつつぞゆく

    【夕方になって、萱の茂みのなかをゆくと、おびただしく鳴き交わす

     虫の音までも左右に分けて行く気がするよ】

 

           『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二   藤原盛方朝臣         

778 そま川(がわ)の浅からずこそ契りしか などこの暮を引きたがふ覧(らん)

    【杣木を流す川のように深い約束であったのに、どうしてこの暮に逢う期待を

     裏切るのだろうか】

 

           『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

     広田社の歌合によめる           藤原盛方朝臣

1082 あはれてふ人もなき身を憂しとても 我さへいかがいとひはつべき

     【あわれという人の一人もいない身を憂いとしても、私自身さえどうして

      厭い通してしまうべきだろうか】

 

           『新古今和歌集』 巻第十六 雑歌上

       題しらず               藤原盛方朝臣

1506 山の端に思ひも入らじ世の中は とてもかくても有明の月

     【有明の月が隠れずに空に懸っているように、私も山の端に隠れてしまおう

      と思い込んだりはするまい。この世の中はどうしようとこうしようと

      生きてゆけるのだ】

 

(※)平忠盛桓武平氏。永長元年(1096)生まれ、仁平3年(1153)没、58才。讃岐守平正盛の息子、清盛・経盛・忠度らの父。白河・鳥羽・崇徳三代の側近を務める。正四位上刑部の卿に至る。崇徳院が召した『久安百首』給題当初は、藤原公行(三条公行)、藤原公能、源行宗、藤原教長藤原顕輔たちと共に平忠盛も名を連ねていたが、仁平3年(1153年)に平忠盛が没したため、藤原隆季が追補された。家集『平忠盛集』。『金葉集』初出、『千載和歌集』1首入集。

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社