これまで、主唱者の俊恵からスタートして最後の紀康宗に至る歌林苑の会衆(常連メンバー)を『千載和歌集』と『新古今和歌集』に入集した歌と略歴で結んで、会衆個々の横顔らしきものを描いてきたが、全体を分類すると次のようになる。 (1)源平武家歌人=…
紀康宗(きのやすむね)の生没年は未詳。紀氏、土佐権守光宗の息子。六位雅楽充。 紀康宗が勤めた雅楽寮(ががくりょう又はうたりょう)は、律令制で治部省に属し、宮廷音楽の楽人管理、歌舞教習などを司った役所。(うたのつかさ)とも。長官は雅楽頭。 本…
源有房の生没年は未詳。伯太夫と称す。神祇伯顕仲の息子、あるいは仲房の息子か。仁安2年(1167)斎院長官、正五位下。久安5年(1119)『山路歌合』出詠。『千載和歌集』初出、3首入集。 ところで、源有房が務めた斎院長官の斎院とは、平安時代から鎌倉時…
源季広(すえひろ)の生没年は未詳だが、文治3年(1187)頃までは生存したとされる。醍醐源氏、木工権頭秊兼の息子。正五位下下野守に至る。嘉応から治承の間(1168~1181)の歌合に出詠。『千載和歌集』初出、1首入集、『新古今和歌集』1首入集。 当時の…
藤原資隆(すけたか)の本名は秊隆、法名は寂慧。生没年未詳で文治元年(1185)9月には存命。道兼流、従五位上重兼の息子。従四位下少納言。家集『禅林瘀葉集』。『千載和歌集』初出、2首入集、『新古今和歌集』1首入集。 藤原資隆についての消息は残され…
【広時(広言の誤記)、『(後白河院の)御歌も聞かぬ田舎より上りたるが、かく露違わぬ事の、ものの筋あわれなること(驚嘆すべき筋合いのことがら)』]とて、流涕するを(涙を流すのを)、人々これを笑ひながら、皆、涙を落とす。】 上記は、自ら今様狂い…
惟宗広言(これむねひろとき)は代々大宰府府官の日向守基言の子として生まれ、生没年未詳だが承元2年(1208)に75才で没したとされる。大宰少監を経て文治二年(1186)に五位筑後守。 広言は、崇徳院の近臣で保元の乱後に配流された藤原教長(※)、歌林苑…
祝部成仲(はふりべのなりなか)は、日吉禰宜成美の息子として康和元年(1099)に生まれ、建久2年(1191)に93才で没している。日吉禰宜総官、正四位上大舎人頭。歌人としては家集『祝部成仲集』を著わし、勅撰集では『詞華集』初出、『千載和歌集』7首入…
源通清は正四位下斎宮尞頭清雅の息子で保安4年(1123)に生まれで没年未詳。治承4年(1180)58才で五位蔵人に補され、従五位下。治承2年(1172)『広田社歌合』に出詠。『千載和歌集』初出、1首入集。 『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中 源清雅九月ばかり様…
神官の賀茂政平の生年は未詳、安元2年(1176)6月没。神主成平の息子。四品片岡社禰宜。承安2年(1172)の『広田社歌合』、及び正二位大納言藤原実国、壇ノ浦で敗死した平経盛、藤原重家がそれぞれ開催した歌合に参加。『詞華集』初出、『千載和歌集』5首…
藤原盛方は保延3年(1137)に生まれ、治承2年(1178)に享年42才で没した。盛方のように生没年がはっきりしているのは身分の高い出自を物語っており、彼の父は中納言顕時、母は平忠盛(※)の娘。従四位下中宮大進、出羽守。仁安から治承(1166-78)頃に歌…
素覚(※1)の息子・藤原伊綱(これつな)の生没年は未詳だが、建仁2年(1203)迄は生存したとされ、姉妹に皇嘉門院に仕えた尾張(※2)。五位中務大輔。治承2年(1178)「別雷社歌合」、正治2年(1200)『石清水若宮歌合』に出詠。『千載和歌集』初出、…
道因(※1)の息子の藤原敦仲(あつなか)は、生没年未詳で本名が憲成。父の道因(俗名・敦頼)の極官が従五位上右馬之助に対して敦仲の極官は従五位下式部大輔であった。治承2年(1178)『別雷社歌合』に出詠。道因は『現存集』(散失)を撰したのを継いで…
参河内侍は二条院に出仕していた頃は既に歌人として知られ、二条院から求められて詠んだ歌が『新古今和歌集』に採られている。 『新古今和歌集』 巻第七 賀 歌 二条院御時、南殿(なでん)の花の盛りに、歌よめと仰せられければ 733 身に代へて 花も惜し…
院政期は出家・遁世の時代でもあった。父あるいは夫が遁世したとき妻子の人生はどのような影響を受けるのか、は、私の関心の一つである。 例えば、保延6年(1140)、23才の若さで突然出家遁世して周囲を驚かせた西行には妻と幼い娘が居たが、西行の妻は夫…
藤原教長(のりなが)は天仁2年(1109)に師実流大納言忠教(※1)と大納言源俊明の娘との間に生まれ、参議左京大夫正三位に昇りつめたが、崇徳院(※2)近臣であった事から保元の乱後に出家したものの捕らえられて常陸へ配流、応保2年(1162)召還され、…
素覚法師の俗姓は藤原家基。長家流、伯耆守藤原家光男の息子で生没年未詳。伊綱(歌林苑会衆)及び、尾張(※1)の父。出家前の官位は刑部少輔従五位下。永暦元年(1160)~嘉応2年(1170)頃に出家したとされる。 主な参加歌合は、出家前の永暦元年(1160…
空仁の消息を伝えるほぼ唯一とも云える西行の語りを記した『残集』から、あくまでも西行の視点で空仁像を描いてきたが、最晩年における西行が空仁を偲んで語った次の言葉はなかなか意味深長である。 申(まうし)続くべくもなきことなれども、空仁が優(いう…
出家前の西行と西住が空仁を訪れて過ごした法輪寺は、嵯峨の大井川の近くにある虚空蔵菩薩を本尊とする寺で、この時、空仁が籠もって法華経の暗誦に励んでいたように、法輪寺は初学の人が籠もって学問の成就を祈る寺としても知られていた。 ところで、出家前…
大井川船に乗り得て渡るかな(残23) 西住付けけり 流れに棹をさす心地して 心に思ふことありて、かく付けなるべし と、ここで、船が岸を離れて西行と西住は空仁と別れるはずであった。 が、西行と西住の出家への思いを見抜いた空仁から、出家を促す意味を…
『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中 題不知 1143 大井河となせの滝に身を投げて早くと人にいはせてしがな 【大堰川の戸無瀬の滝に投身して、あの人は早く世を捨てたと 人に言わせたいものだ】 上記は空仁法師(※1)の『千載和歌集』入集歌の一首であるが、…
ここでは、死後に『千載和歌集』に思いも掛けず多くの自作歌を採り入れてくれた撰者藤原俊成の夢に現れ、感涙で喜びを表現した道因を偲びながら、『千載和歌集』及び『新古今和歌集』から幾つか味わってみたい。 『千載和歌集』 巻第一 春歌上 花の歌とてよ…
道因がいくら藤原北家の出とはいえ、摂関政治が栄華を誇った時代は遠くに去り、今や天皇の父・上皇が実権を握り台頭著しい武士との連携で政権を運営する院政期にあって、藤原北家の支流のさらに支流の出の道因にとって、位階の昇進は到底望めず、従五位上止…
さて、無常の時代に歌への激しい執念を燃やして90余才まで生きた道因とは一体どのような人物であろうか。知られている略歴は次の通り。 道因の俗名は藤原敦頼。藤原北家の高藤の末裔で治部丞清孝の息子として寛治4年(1090)生に生まれ、没年未詳だが、治…
『無名抄』で鴨長明は、歌に命をかけて九十余才まで生きた老法師の凄まじい執念のありようを「63 道因歌に志深きこと」で見事に活写している。 【歌道への志の深さにおいては道因入道(※1)に並ぶ者はいません。入道は70~80歳になるまでは「どうか良…
さて、鴨長明・兼好法師という希代の識者を注目させた登連法師とは一体どのような人物であろうか、と、あれこれ調べてみたが、出自・系譜・生没年未詳で、判明したのは以下の事項。 ・治承2年(1178)頃は生存。中古六歌仙、歌林苑会衆の一人。家集『登連法…
次に登連法師の「ますほのすすき」の逸話についての兼好法師(※1)の視点を『徒然草~第百八十八段 』でみてみたい。 【一事を必ずなそうと思えば、他のことが駄目になることを惜しんではいけない。人の嘲りも恥じるべきではない。万事を犠牲にしなければ一…
歌林苑会衆の登連法師の「ますほのすすき」の逸話は鴨長明の『無名抄』、兼好法師の『徒然草』などに引用され、「我こそは数寄者」と自認する人たちの関心を集めていたようだ。先ずは、『無名抄』から鴨長明の視点を窺うことにした。 「無名抄 16 ますほの…
摂関家の次男に産まれ、端からも羨まれる僧階のトップに登り詰めながら、生母の身分故に置かれた前大僧正覚忠の立場を推量しつつ、改めて「西国巡礼(西国三十三所の観音巡礼)」の事始めとされる下記の歌を読むと、漂泊と祈りに込めた作者の思いが伝わって…
地下の僧俗の多い歌林苑会衆の僧は殆ど遁世聖で、何故僧階のトップを登り詰めた前僧正覚忠が参加していたのか、好奇心から少し掘り下げてみる事にした。 『千載和歌集』巻末の人名索引での覚忠についての記載は、 俗姓藤原、元永元年(1118)生、治承元年(1…