新古今の景色(60)院政期(35)歌林苑(25)登蓮(2)兼好法師の視点

次に登連法師の「ますほのすすき」の逸話についての兼好法師(※1)の視点を『徒然草~第百八十八段 』でみてみたい。

 

【一事を必ずなそうと思えば、他のことが駄目になることを惜しんではいけない。人の嘲りも恥じるべきではない。万事を犠牲にしなければ一つの大事をなすことは出来ない。

 

人の多く集まっている中で、ある者が、『ますほの薄(すすき)、まそほの薄などいふ事がありますが、わたのべの聖がこの事を伝へ詳しく知っているようです』と語ると、その座にいた登蓮法師がこれを聞いて、雨降が降っているにもかかわらず、『蓑笠があればお貸し願いたい。かの薄のことを教わりに、わたのべの聖のもとに尋ねてまいりたいので』と言うのを、『それにしてもあまりにも慌ただしい。雨が止んでからにされては』と皆が留めるのを『とんでもないことを仰いますな。人の命は、雨の晴れ間を待ってくれるものでしようか。私も死に、聖も亡くなってしまえば、尋ねて聞く事もできません』と、言い残して雨の中を駆け出してゆき、聖から習ったと申し伝えたという事こそ、大したことであり、またありがたいことです。

 

『敏(と)き時は則(すなわ)ち功あり』(※2)と論語にも書かれているそうです。この薄(すすき)について知りたいと思った登蓮法師のように、悟りを開いて人間として完成する機縁となる一大事の因縁を思うべきです】

 

同じ登連法師の振る舞いについて、自らを数寄者と任じる長明は「数寄者はこうでなくては」と称賛しているのに対して、人生の観察者たる兼好法師は、登蓮法師の素早い行動力を『論語』を引き合いに出して「人生訓」の例えとして述べている。 

 

(※1)兼好法師:弘安6年(1283)頃~正平7年(1352)以降。鎌倉末期の歌人。俗名:卜部兼好(うらべかねよし)。先祖が京都吉田神社の社家であったことから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のちに後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩御後に出家・遁世。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされた。『徒然草』の他自選歌集がある。

 

(※2)『敏き時は則ち功あり』:機敏であれば成功する。弟子の子張が孔子に仁を問うた中で、子曰(のたまわ)く「・・・・・敏なれば則ち功あり・・・・」とある。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 徒然草木藤才蔵 校注 新潮社