摂関家の次男に産まれ、端からも羨まれる僧階のトップに登り詰めながら、生母の身分故に置かれた前大僧正覚忠の立場を推量しつつ、改めて「西国巡礼(西国三十三所の観音巡礼)」の事始めとされる下記の歌を読むと、漂泊と祈りに込めた作者の思いが伝わってくるような気がする。
『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌
三十三所観音拝(をが)みたてまつらんとて所々にまいり侍りける時、
美濃の谷汲(たにくみ)にて油の出づるを見てよみ侍りける
1211 世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり
【世を照らすみ仏の霊験があったので、いまでも灯火は消えずに
輝いているのだなあ】
ところで、前大僧正覚忠の歌の実績に目を転じると、『千載和歌集』初出で9首入集、『新古今和歌集』には1首入集となっており、ここで『千載和歌集』から3首、『新古今和歌集』から1首を採り上げてみたい。
『千載和歌集』 巻第二 春歌下
海路ノ三月尽といへる心をよめる
133 をしめどもかひもなぎさに春暮れて 波とともにぞたちわかれぬる
【春の暮れにこの渚で春を惜しんでも甲斐のないことだよ。春は波と共に
立ち別れていったよ】
同 巻第四 秋歌上
273 ときはなる青葉の山も秋くれば 色こそかへねさびしかりけり
【常緑の青葉山も、秋がやってくると、まだ色こそかわらぬものの、
流石に寂寥の景色に変化することだ】
同 巻第五 秋歌下
山寺ノ秋ノ暮といへる心をよみ侍ける
382 さらぬだに心ぼそきを山里の鐘さへ秋の暮をつくなり
【そうでなくてさえ心細くしているのに、ここ山里で聞く寺の鐘までが
秋の暮を告げていることだ】
『新古今和歌集』 巻第六 冬 歌
571 神無月 木々の木の葉は 散りはてて 庭にぞ風の 音はきこゆる
【十月ともなれば、木々の葉はすっかり散りはてて、梢ではなく、庭の
落ち葉を吹く風の音が聞こえるよ】
片野達郎・松野陽一 校注 岩波書店刊行