新古今の景色(64)院政期(39)歌林苑(29)道因(3)人生と歌

道因がいくら藤原北家の出とはいえ、摂関政治が栄華を誇った時代は遠くに去り、今や天皇の父・上皇が実権を握り台頭著しい武士との連携で政権を運営する院政期にあって、藤原北家の支流のさらに支流の出の道因にとって、位階の昇進は到底望めず、従五位上止まりでであった事は仕方のないことであろう。

 

それでも道因が83才で出家するまでは、俗姓の藤原敦頼で暮らしていたことは、出家直前の承安2年(1172)3月に藤原清輔が催した「暮春白河尚歯会(※1)和歌」の参加記録に「散位(※2)敦頼八十三歳」と残されているので、若くして世を捨てることなく、俗世間と折り合いを付けていたことが窺える。

 

そんな人生の中で、道因の歌壇での活動が開始されたのは晩年からとされ、座を連ねた主な歌合は・永暦元年(1160)「太皇太后宮大進清輔歌合」・嘉応2年(1170)の「左衛門督実国歌合」・安元元年(1175)及び治承3年(1179)の「右大臣兼実歌合」・治承2年(1178)の「別雷社歌合」などが挙げられるが、その中でも右大臣兼実や太政大臣の孫で権大納言正二位に至った左衛門督実国から声がかかるという所に、道因の藤原北家の出自が物を言っているといえるのではないか。

 

先に述べた長明の「63 道因歌に志深きこと」

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2021/01/10/101000

 

に描かれた道因の歌の勝ち負けに拘り判者の藤原清輔の家まで押しかけて涙を流して抗議する、あるいは、死後に『千載和歌集』に自分の歌が16首入集した事に感激して撰者の藤原俊成の夢に現れてハラハラ涙を流すエピソードなど、私には何とも鬱陶しく、見苦しく思える。

 

しかし、家まで押しかけられた藤原清輔は自分が催した「暮春白河尚歯会和歌」会に道因を誘い、藤原俊成は夢に現れた道因の感激ぶりに心を動かされて『千載和歌集』への入集歌をさらに4首も増やしたばかりか、その息子の定家は、『千載和歌集』の入集歌から次の歌を「百人一首」に採り上げている。

 

82 思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へねば涙なりけり

   【恋の思いにこれほど苦しんでいても、それでも命は続いているのに、つらさに 

    堪えきれず、こぼれ落ちてしまうものは、涙であることよ】

 

こうしてみると、道因という人は、歌壇において、時には周囲を辟易させながらも、歌への一途さででは愛されたのだと思う。

 

また、今から840年前に、数え年ながら93才までの長寿をなした道因の生命力の源泉として歌への執着が挙げられるのではないか。

 

(※1)尚歯会(しょうしかい):高齢者を祝う会。敬老会。また、老人を請じて詩歌を作り遊楽を催す会合。七叟といって主人を入れて7人の老人が集まり、それ以外は相伴として列する。中国で845年に白楽天が催したのが初めで、日本では貞観19元年(877)に大納言南淵年俊が小野山荘で開いたのが初め。(この頃の日本と中国は密接だったのか)。

 

(※2)散位(さんに):律令制で位階だけあって官職についていない者。蔭位(おんに)により官位があって役職のない者、または職を辞した者などの総称。

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系 千載和歌集

         片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店

     『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 百人一首角川ソフィア文庫

 

参考web:

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/douin.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekuni.html