新古今の景色(116)院政期(91)小侍従の遁世(1)「待宵の小侍従」

 

          待つ宵の 更けゆく鐘のこゑきけば 

            あかぬ別れの鳥は物かは

 

平家物語 巻第五 月見』によれば、この1首によって「待宵の小侍従(※1)」の名は決定的になったと下記のように記されている。

 

 〔そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、太宮の御前(おまへ)(※2)にて『待つ宵と帰る朝(あした)とは、いずれかあはれはまされるぞ』、と御たづねありければ、いくら(何人)も待(さぶら)はれける女房達のうちに、かの女房、

 

     待つ宵の 更けゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

  【恋人を待ちわびる宵の、空しく更けゆく鐘の音を聞くときの切なさに較べれば、

   名残惜しい朝の別れに聞く鳥の声など物の数ではありません】

 

と申したりけるゆゑにこそ「待宵の小侍従」とは召されけれ。背(せい)のちひささによってこそ「小侍従」とも召されけれ。〕

 

(※1)小侍従:生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘、母は歌人小大進。建仁元年(1201)に80余歳で生存か。大納言藤原伊実に嫁し(正室ではない)、夫の死後二条帝に仕え、その崩御後は太宮(大皇太后多子)、高倉天皇に仕えた後に治承3年(1179)に59歳で突然出家。「待宵小侍従」と称される。家集『小侍従集』を著す。『千載和歌集』初出6首入集、『新古今和歌集』7首入集。

 

(※2)太宮の御前:徳大寺公能の女多子(まさるこ)。後徳大寺実定の異母妹。近衛帝中宮となり、崩御後は二条帝に入内して二代后と称された。二条帝崩御後は近衛河原の太宮に隠棲。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 中』 水原一 校注 新潮社

 

新古今の景色(115)院政期(90)寂蓮の遁世(28)入滅~定家の慟哭

寂連の入滅した日は明確ではないが、彼が出詠した最後の歌合は、後鳥羽院建仁2年(1202)5月26日に主催した『仙洞影供歌合』とされる。

 

その一ヶ月後の寂蓮と近しかった藤原定家の6月29日の『明月記』には、

 

〔廿日、天陰、炎暑之間衆病競起甚無術、午時許少輔入道来、相乗参入道殿、申時許還、於途中遇大雨入還、即帰了〕

と、炎暑続きの日々で、あちこちで病気が流行っているさなか、寂連が定家邸を訪れ、車に同乗して俊成邸を訪問し、帰路に大雨に遭遇したがその中を帰り着いたと記しているが、その時の寂蓮の健康状態については何も触れていない。

 

しかし、さらにその1ヶ月後の7月20日の『明月記』では、

〔廿日、天晴、午時許参上、左中弁云、少輔入道逝去之由〕

と、定家が正午頃に院御所に参上した時、左中弁から寂連が逝去したことを知らされており、この記述が寂蓮の入滅を7月20日以前とみなす根拠の一つとなっている。

 

そして、次には、寂蓮を突然に失った定家の慟哭が赤裸々に吐露されている。

〔浮世無常雖不可驚、今聞之、哀慟之思難禁、自幼少之昔、久相馴巳及数十廻、凡於和歌道者、傍輩誰人乎、巳以奇異逸物也、今巳帰泉、為道可恨、於身可悲〕

 

【無常のこの世であれば驚くべきではないとはいえ、たった今少輔入道の死を聞かされて嘆き悲しむ思いを留めることができない。幼少の昔より長く馴れ親しんで数十年になる。総じて和歌の道において少輔入道をおいて一体誰が肩を並べようか。

早くから他の人とは異なり類のない優れた歌人であった。その少輔入道は、今、まさしく黄泉の国に向かった。和歌の道のためには恨めしいことである。我が身においても悲しいことである】

あの狷介な定家の率直な悲しみが伝わってくる文章である。

 

寂連は後鳥羽院に望まれて『新古今和歌集』の撰者に選ばれていたが、心ならずもその役割を果たすことなく入滅した。

 

寂蓮の死を悼み悲しんだのは定家だけではなく、後鳥羽院の近臣で和歌所の開闔(書記)を務めた源家長は、急な病で『新古今和歌集』の完成を見ることなく志半ばで散らざるを得なかった寂蓮の無念さを思いやると共に、歌人としての寂蓮に大きな期待を抱いていた後鳥羽院の半端ではない嘆き、そして深い結びつきを重ねてきた和歌所の寄人たちの喪失感を『源家長日記』に次のように記している。

 

〔心もとなく、いかほどかあつめよせつらんなどと思ひし程に、としもかはりてそのとしの秋比寂連入道わづらひて、つひにはかなくなりはべりにき。よのならひながら、をりしもこそあれ、かかる勅をうけ給ふ、此事をとげずしてうせぬる事、いかばかりのこと思ひけん。君も御なげきあさからぬ御気色也。まいて此道をたしなみ心をそめたる人々のなげきあへるけしきもいへばおろかなり。中にも和歌所のより人たちは、身のうへのなげきとのみ、涙も更にふししづみなげきあへり(後略)〕

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(114)院政期(89)寂蓮の遁世(27)『熊野懐紙』と『一品経和歌懐紙』

ところで寂蓮は和歌の名手だけではなく、舞の名手として、さらには能書家としても広く知られている。舞については、29歳の仁安2年(1167)に賀茂臨時祭の舞人を務めたことが平信範の日記『兵範記』に、31歳の仁安4年(1169)と翌年の嘉応元年(1170)に石清水八幡宮臨時祭の舞人を務めたことが『宮事縁事抄』に記されている。

 

さて、能書家としての寂蓮の作品について、ここでは『熊野懐紙』と『一品経和歌懐紙』を採り上げたい。

 

後鳥羽院は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して以後、承久3年(1221)隠岐に配流されるまでの24年間に実に27回も熊野御幸を行ない、その途次の王子社などで催された当座歌会の和歌の懐紙が現存している。

 

そのなかの、62歳の寂蓮が正治2年(1200)12月初旬の熊野御幸に随行した際の当座歌合で詠んだ和歌の熊野懐紙『古渓冬朝 寒夜待春』(国宝 陽明文庫蔵)は歌題二首を詠進したもので次のように書かれている。

 

        詠二首和歌        沙弥寂蓮上

              古谿 冬朝

    つまぎこるむかしのあともしられけり ゆきよりおろすたにのきたかぜ

   【昔 薪にする小枝を採った跡もわかることだ。雪がふり下ろす谿谷より吹き

    込んでくる北風よ】

 

              寒夜 待春

    旅寝するやまのはさゆるしらくもの はなにこゝろをならしそむらむ

   【旅寝をして、山の稜線のあたりが冷え込んで、その白雪が春になって花が咲く

    気持ちに慣れ親しませてくれる】

 

『書と墨画のグラフ誌 墨 1985年7月号』より

 

次に採り上げる『一品経和歌懐紙』(国宝・京都国立博物館蔵)二首懐紙で、一首は法華経の各品を題として詠み、一首は「述懐」を題として詠んだもので次のように書かれている。

 

          安楽行品          寂蓮

 

             若於夢中 但見妙事

     のりのためつとめてのちにみしゆめや ねむりさむべきはじめなりけむ

 

               述懐

     たのむぞよあまついはとをわけきても ちりにひかりのかよふあはれは

 

一首目の「安楽行品」の歌は、法華経の「妙法蓮華経安楽行品第十四」の経文中の「若於夢中 但見妙事」の句を典拠として詠み、その歌意は、仏道修行に励んで後に見た夢は、眠りから覚め、仏道の真理を知るきっかけになるのであろう。

 

二首目の「述懐」の歌意は、たよりにすることだよ。高天原の岩戸を引き開けても、仏や菩薩が、この世の人々を救済するために、その威徳の光を和らげ、いろいろな姿となって俗塵に満ちたこの世に現れる、何とも趣のあることよ。

 

『書と墨画のグラフ誌 墨 1985年7月号』より

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』

新古今の景色(113)院政期(88)寂蓮の遁世(26)『仙洞影供歌合』~最後の歌合

建仁2年(1202)5月26日に後鳥羽院が主催した『仙洞影供歌合』は、寂連最後の歌合とされ、その2ヶ月後の7月に寂連は入滅した。

 

ところで「影供歌合」とは元永元年(1118)、平安期の歌人・藤原顕季が歌会の場に、歌聖と称された柿本人麿の像を懸けたことが始まりとされている。

 

(人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』 藤原隆章筆 

芸術新潮2018年9月号より」)

 

そして、誰よりも和歌の繁栄を期した後鳥羽院は、建仁元年(1201)7月27日に和歌所を設置した直後に、和歌所での初めての歌合として『人麿影供』のしきたりに則って『和歌所影供歌合』を催した。

 

その時の、出詠歌人は36人、歌題は「初秋暁露」「関路秋風」「旅月聞鹿」「故郷虫」「初恋」「久恋」の6題を競い、判者は釈阿(俊成)が勤めたが、判者の歌は衆議判、勝負付はされたが判詞は記されていない。そして、めざましい成績を収めたのは後鳥羽院・良経・内大臣通親・慈円・釈阿、それに対して不面目な成績だったのは定家・雅経・有家・讃岐そして寂蓮であった。

 

今回採りあげる『仙洞影供歌合』では出詠歌人は26名、歌題は「暁聞郭公」「松風暮涼」「遇不逢恋」の3題で、各題13番、計39番、判者は衆議判で、勝負付はされたが、判詞は記されていない。

 

ここでの寂連の出詠歌は各題3首で、俊成卿女と番って持(引分)2、負1の成績であったが、その中から「遇不逢恋」の題詠歌を採り上げたい。

 

         八番  左持(引分)    俊成卿女

    夢かとよ見し面影も契りしも わすれずながらうつつならねば

   【夢であったのか。逢ったときのあの人の面影も、契りをかわしたことも、

    忘れてはいないものの、現実のことではないので】

 

              右         寂連

    里はあれぬむなしき床のあたりまで 身はならはしの秋風ぞ吹く

   【あの人が訪れてこないので、私が寂しく住んでいる里の宿はすっかり

    荒れてしまった。はかない独り寝の床のあたりまで。身は習慣で慣れる

    と堪えられる、男心の飽き、秋風が吹くことよ】

 

ところで寂連の歌は、『拾遺和歌集』(巻十四・恋四・九〇一番)に入集している次の歌から「身はならはしの」の句を本歌として、同一箇所に置いて詠んでいる。

 

        (題しらず)      (よみ人しらず)

    た枕のすきまの風もさむかりき 身はならはしの物にぞ有りける

   【共寝をしている時の手枕の隙間の風も寒かった。独り寝をしている今は、

    身は習慣で慣れると堪えられるものであることだ】

 

「遇不逢恋」の題詠歌で俊成卿女と寂蓮の勝負は引き分けとなったが、後に俊成卿女の歌は『新古今和歌集』(巻十五・恋五、一三九〇番)に、寂連の歌も『新古今和歌集』(巻十四・恋四、一三一二番)にそれぞれ入集している。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(112)院政期(87)寂蓮の遁世(25)『三体和歌会』(2)後鳥羽院の賞讃

更に続けて『三体和歌会』での寂蓮の詠歌を見てゆきたい。

 

           夏         太くおおきに読むべし

             夏の夜の有明の空に郭公 月よりおつる夜半の一声

         (夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる

            夜半の一声がする)

 

         秋       からびほそく読むべし

             軒ちかき松をはらふか秋の風 月は時雨の空もかはらで

         (時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、

            軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)

 

         冬        同前

             山人のみちのたよりもおのづから 思ひたえねと雪は降りつつ

          (山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと

             雪は降り続いていることよ。)

 

          恋        ことに艶によむべし

              うきながらかくてやつひにみをつくし わたらでぬるるえにこそ有りけれ

          (せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで

    濡れてしまった江であることよ。実際には契りを交わさない浅い縁であり

    なが ら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこう

    してしま いには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)

 

           旅      同前

              むさしのの露をば袖に分けわびぬ 草のしげみに秋風ぞふく

          (武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。

             草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖

             の露(涙)は払うことのできないことよ。)

 

後に、後鳥羽院は、寂蓮の作歌姿勢および『三体和歌会』における詠歌を賞賛して『後鳥羽院御口伝』で次のように率直に記している。

 

『寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。

 折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき』

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

    

 

新古今の景色(111)院政期(86)寂蓮の遁世(24)『三体和歌会』(1)長明の感謝

『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、連なった歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・寂連・長明の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。

 

この『三体和歌会』に関しては、後鳥羽院から召された幾人かの歌人が難題故に諸々の理由で辞退した中で、錚々たる歌人に連なった長明の誇りに満ちた『無名抄』の記述が余りにも有名なのでそれを引用してみた。

 

【御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし、思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなりり」と、おほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおば、またもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。】

 

この歌会での寂蓮の出詠歌は、まずは、後鳥羽院から賞賛され、『新古今和歌集』(巻一・春上・八七番)にも入集した春の歌から。

 

           春 ふとくおほきによむべし

                      かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲

                  【葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の

                   奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない】

 

ところでこの寂蓮の歌と長明が出詠した春の歌の主材が「高間の山の桜」でかち合ったいきさつについて、長明は『無名抄』で次のように記している。

 

【春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり】

 

通常は、歌の可否判断を求めた側の歌の主題が、求められた側の歌の主題とかち合った場合、可否判断を求められた側がその旨を伝えて、求めた側に主題を変更させるのだが、それを踏まえて、自分の主題と同じ長明の歌の出詠を推奨した寂蓮の懐の深さに感激している。

 

さて、寂蓮と同じ「高間の桜」を詠んだ長明の春の歌は下記の通りである。

 

            春 ふとくおほきによむべし

                    雲さそふ天つ春風かをるなり 高間の山のはなざかりかも

                 【花の雲を誘って散らせる空吹く春風がかおっている。

                   高間の山は花盛りなのだろうか】

 

(※)高間の山:奈良県御所(ごぜ)市の金剛山の別称。桜の名所。

 

参考文献:『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

                  『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

 

新古今の景色(110)院政期(85)寂蓮の遁世(23)『撰歌合』(3)結題の名手

月をテーマとした「結題(むすびだい)」十題五十番で競われた『撰歌合』で、寂連の詠歌は「月多秋友」「月前松風」「河月似氷」の3題が撰歌され、慈円、保季、通具に対して勝3の成績であった。

 

その中から慈円と対して勝ちとなった「月多秋友」の歌を採り上げたい。

 

         二番   左勝     寂連

      高砂の松もむかしに成りぬべし 猶ゆく末は秋の夜の月

    (高砂の尾上の松も長寿であるといっても、寿命が尽きて昔のものと

     なってしまうであろう。やはり我が君の将来にわたっての友は秋の

     夜の 月であることよ)

 

         二番   右      前権僧正慈円

     君が代のかげにかくれぬ秋なれば 月にちとせを契らましやま

    (我が君の御代の光に隠れることのない秋の季節であるので、月に御

     代の長久であることを約束したであろうに)

 

         判詞           俊成

     右方(慈円)も予め左方(寂連)の歌が良い理由を申していた。判者(俊

     成)も同様であり左方の勝ちとする。

 

ところで寂連のこの歌は(『古今和歌集』(巻十七・雑上・九〇九番)、(『百人一首』(三四番)に入集している次の1首から本歌取りしている。

 

        (題しらず)      藤原おきかぜ(※1) 

    誰をかもしる人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに

    (いったい誰を友にしたら良いのであろうか。あの高砂の年老いた松

    も昔からの友人ではないのだからなあ)

 

ここでの「高砂」は播磨国(現在の兵庫県高砂市)の歌枕。松を詠むことが多く寂連も慈円も、松の寿命の長さを、歌合の主催者である後鳥羽院の長寿を言祝ぐ歌として詠んでいる。

 

注目すべきは、この『撰歌合』での「月多秋友」は『新古今和歌集』(巻七・賀・七四〇番)に、「月前松風」も『新古今和歌集』(巻四・秋上・三九六番)に、さらに「河月似氷」も『新続古今和歌集』(巻四・秋上・四七九番)に入集した事である。

 

ところで、後鳥羽院は『御口伝』で寂蓮を「結題」の名手として次のように賞賛している。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20170401

 

「一、 時に難(かた)き題を詠じならふべき也。近代あまりに境(さかひ)に入りすぎて、結題(むすびだい)の哥も題の心いとなけれども苦しからずとて、細やかに沙汰すれば、季経(※2)が一具(※3)にいひなして平懐する(※4)事、頗(すこぶる)いはれなし。

 

寂蓮は大きに不受せし事也。『無題の哥と結題の歌とたゞ同じようなり、栓なし』と申しき。尤も其の理ある事也。寂蓮は殊に結題をよく詠みしなり。定家は題の沙汰いたくせぬ者なり。これによりて、近代初心の者も皆かくのごとくなれり。

 

結題をばよくよく思ひ入れて題の中を詠ずればこそ興もある事にてあれ、近代の様は念なき事也。必ず必ず詠みならふべき事也』

 

やや難解な文章だが、これは、後鳥羽院が『後鳥羽院御口伝』で結題を詠むことの重要性と、結題の名手としての寂蓮を讃えた部分である。

 

さて、後鳥羽院がことさら重視した 結題(むすびだい)とは何か、と、いえば、「池水半氷」のように一つの完結した文をなしている歌題を指し、具体的なイメージを喚起するために『寂蓮法師集』から次の3首を挙げてみた。

 

       〈蝉聲夏深〉

    秋風もかよふはかりの梢より 松をはらふや 蝉のもろこゑ

 

       〈蛍火秋近〉

    いまはたゝ一夜計や夏むしの もえ行末は秋かせの空

 

      鳥羽院にて五月十五日

       〈暁聞郭公〉

    ほとゝきす有明の月の入方に 山のは出る夜半の一こゑ

 

まさに、この『撰歌合』こそは、「結題」の第一人者寂蓮の面目を施す機会であった。

 

(※1)藤原おきかぜ:藤原興風。生没年不明。36歌仙の一人日本最古の歌論書の著者藤原浜成の曾孫。『古今和歌集』撰者時代の有力歌人。管弦にも優れ琴の名手でもあった。

 

(※2)季経:藤原季経。六条藤家、顕輔の子、清輔・顕昭らの弟。建仁元年出家、承久3年没91才で没。家集あり、『千載和歌集』初出。

 

(※3)一具:一揃い。題の心を具備した歌とそうでない歌をとを同列に評しての意味か。

 

(※4)平懐する:平懐は平凡な詩想。で、平懐な歌を詠むの意か。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

     『群書類従』 東京 続群書類従完成會

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集下』 久保田淳 校注 新潮社