新古今の景色(109)院政期(84)寂蓮の遁世(22)『撰歌合』(2)働く海人

次に、寂蓮の歌は登場しないが、新古今時代の転換期を象徴するとされる「海辺秋月」の題詠歌から「働く海人」をモチーフにした3人の詠歌を採り上げたい。

 

先ずは二条院讃岐と番えて勝ちとなり、後に『新古今和歌集』(秋上・四〇一番)に入集した鴨長明の次の歌から。

 

         二十一番   左勝     鴨長明

      松島や潮くむ海人の秋の袖 月は物思ふならひのみかは

 

長明はこの歌で「海」と「月」の題を結びつけるために「月の宿る海人の袖」を設定し、その袖がどういう袖かを意味づけるために次の2首から本歌取りをしている。

 

          (古今集 恋五・七五六 伊勢)

      あひにあひて物思ふころのわが袖に 宿る月さへ濡るる顔なる

 

          (後拾遺集 恋四・八二七 原重之

      松島や雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず

 

この歌で長明は下句の「月は物思ふならひのみかは」で、「月は物を思って涙に濡れた人の袖だけでなく、秋になると波に濡れた海人の袖にも宿る」との意を込めて、これまでの歌合で詠まれる事のなかった海人の袖を詠み込むという斬新さを打ち出している。

 

次に長明と番えて負けになった二条院讃岐の歌を採り上げたい。

 

          二十一番   右負    二条院讃岐

      松島や雄島の海人も心あらば 月にや今宵袖ぬらすらん

 

この二条院讃岐の歌も海人の袖に焦点を当てて「海人もこころあらば」と詠っているが、次に採り上げる宮内卿の「心ある雄島の海人の袂かな」よりは曖昧な存在として詠っている。

 

次により積極的に海人の存在に踏み込んだ宮内卿の歌をみてみたい。

 

         十八番  左勝   宮内卿

      心ある雄島の海人の袂かな 月宿れとは濡れぬものかは

 

後に『新古今和歌集』(秋上・三九九)に採られた宮内卿のこの歌は、「心ある雄島の海人の袂かな」と海で働く海人を「心ある存在」と明確に設定して、長明や二条院讃岐よりも一歩も二歩も踏み込んで働く海人を主体的な存在として詠っている。

 

そういえば、それまでは主として宮廷貴人や僧界が描かれてきた絵巻物に、初めて働く人や市井の庶民が登場したのは、後白河院パトロンとして描かせた「伴大納言絵巻」や「信貴山縁起絵巻」であった。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20071122) 

 

そして、長い間宮廷人や僧を歌の対象にしてきた和歌の世界もに、働く庶民が詠われる対象となったのは後鳥羽院の時代である。

 

参考文献:『国文学~古今集新古今集』2004年11月号(學燈社

新古今の景色(108)院政期(83)寂蓮の遁世(21)『撰歌合』(1)深山暁月

『撰歌合』は建仁元年(1201)8月15日夜に和歌所にて催された後鳥羽院主催の歌合で、歌人は判者の釈阿(俊成)を含めて25人、双方の難陳(※1)が記されているのが興味深く、判詞は簡略であった。

 

歌題は、「月多秋友」「月前松風」「月下擣衣」「深山暁月」など月にまつわる結題(※2)10首で、その中から100首を選んで50番の歌合に仕立て、この歌合から13首が『新古今和歌集』に入集している。

 

後鳥羽院は殊に結題(4字句題とも)に執心したと伝えられるが、結題は通常の歌題に比して、題として含まれる内容が多いので、どのように詠み込むかが問われることになる。

 

そこで歌題「深山暁月」を例にとり結題がどのように詠まれたかを見てみたい。

 

        三十三番  左持(引分)     俊成卿女

      秋の夜の深きあはれをとどめけり 吉野の月の有明の空

 

後に『新勅撰集』(三百六十九番)に入集した俊成卿女のこの歌は「深き」に「深(山)」を感じさせる工夫を凝らしているが、判者は「殊なることなし」、工夫が足りないと批評して引分けにしている。

 

        三十番   左負      後鳥羽院

      住みなれてたれ我が宿とながむらん 吉野の奥に有明の月

 

後鳥羽院の歌に対して判者は「深山ただ思ひやるばかりなり、同じくは、われ住みて見んや、まさるべくはべらん」との辛辣な判詞で負けにしている。体験に基づかないで深山をただ想像しているだけでは深みが足りないということであろうか。

 

        三十一番  左持(引分)    左大臣良経

      深からぬ外山の庵の寝覚めだに さぞな木の間の月は寂しき

 

良経の歌は後に『新古今和歌集』(秋下・三百九十五)に採られているにもかかわらず、この時の判者は「左右殊なる事なし」と引分にしている。因みに引分の右方の歌は

      人は来て真木の葉分けの月ぞ漏る 深山の秋の有明の空

であった。

 

        三十五番   左勝     鴨長明

      夜もすがらひとりみ山の真木の葉に くもるもすめる有明の月

 

長明の歌は第四区の「くもるもすめる」を「曇っているが(むしろそれだからこそ)澄んでいる」の意に用いた工夫が評価されたようで、当時の歌壇では「真木の葉ごしの月こそ『あはれ』の極み」という認識があり、それを汲み上げたのかも知れないが、この歌は後に「『新古今和歌集』(雑上・一千五百二十三)に入集している。 

 

(※1)難陳(なんちん):互いに論難・陳弁しあうこと。

(※2)結題(むすびだい):和歌で題詠の際に出される歌題の一種。漢字4字から成

    り、二つないしはそれ以上の事柄を結合した歌の題。

 

参考文献:『国文学~古今集新古今集』2004年11月号(學燈社

     『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(107)院政期(82)寂蓮の遁世(20)『和歌所影供歌合』

後鳥羽院は『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月27日に二条殿の広御所に和歌所を設置し、寂蓮は和歌所寄人の1人に選ばれた。

 

ここでは後鳥羽院が和歌所を設置した直後に初めて同所で催した『和歌所影供歌合』を採りあげたい。

この歌合は、和歌所設置直後の8月3日に披講されたもので、歌題は「初秋暁露」・「関路秋風」・「旅月聞鹿」・「故郷虫」・「初恋」・「久恋」の6題、歌人は36人、各題18番、計108番。判者は釈阿(俊成)で、判者の歌は衆議判、勝負付はされたが判詞は記されていない。

 

この歌合で目覚ましい成績を収めたのは後鳥羽院・良経・内大臣通親・慈円・釈阿、それに対して不振な成績だったのは定家・雅経・有家・讃岐そして寂蓮であった。

 

ここでの寂蓮の詠歌は各題6首で内大臣通親と競って持(引き分け)1、負4、無判1のまことに不面目な成績であったが、その中から「関路秋風」の歌を採りあげたい。

 

         三番    左勝       内大臣(通親)

    風の音やみにしむばかり聞ゆらん 心づくしのもじの関もり

          【秋風の音が身に強く感じられるほどに聞こえてくるよ、あれこれと深く

             気をもんでいるであろう門司の関守よ】

 

               右        寂蓮

    春やまたあふ坂こえん秋風に けふ立ちかへるしら川の関

           【春には再び逢坂の関を越えてくることであろう。秋風が吹き、今日昔に

             かえる白川の関守よ】

 

内大臣通親の「もじの関もり」歌の「門司関」は筑紫の国の歌枕で、福岡県北九州市門司区関門海峡の早鞆の瀬戸に設置された関所で、「筑紫(つくし)」の地名と「心づくし」を掛詞として詠んでいる。

対する寂蓮の「春やまた」の歌は、『後拾遺和歌集』に入集している能因法師の下記の歌の影響を受けているとみられ、逢坂の関(滋賀県大津市に設置されていた)と白河の関福島県白河市に設置されていた)を詠んでいる。

 

    みちのくににまかりくだりけるに、しらかはのせきにてよみはべりける

                   【陸奥国に下向しました時に、白河の関で詠みました。】

              みやこをばかすみとともにたちしかど 秋風ぞふくしらかはのせき

          【都を春霞が立つと同時に出発したが、いつのまにか秋風の吹く季節に

             なっていたよ。】

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公

新古今の景色(106)院政期(81)寂蓮の遁世(19)『千五百番歌合』(2)

寂蓮の次の歌も『新古今和歌集』(巻二・春下、一五四番)に入集しており、判者は釈阿(俊成)。

 

         二百八十一番    左   有家朝臣

    わぎもこがくれなゐぞめのいはつつじ いはでちしほの色ぞ見えける

             【私のいとしい人の緋色に染めた衣 岩つつじは 何も言わないで

               繰り返し幾度も染めた色に見えたことだ】

 

             右勝            寂蓮

            おもひたつとりはふるすもたのむらむ なれぬる花のあとのゆふぐれ 

             【桜の花が散ってしまったので、さあ、もう、帰ろうと、飛び立つ鳥には

               あてにする古巣があるのであろう。それにひきかえ、私は、馴れ親しんだ

               桜の花が散ってしまった後の夕暮の寂しさをなんとしたらいいものか】

 

           判詞           釈阿

 左歌、いはつつじ ちしほの色ふかくも見え侍るを、右歌、なれぬる花のあと

   ゆふぐれ、宜しく侍りけるにやと見え侍り、勝ちにてや侍るべからん。

 

ところで寂蓮が詠んだ歌は、『千載和歌集』(巻二・春下、一二二番)に入集している崇徳院御製の次の歌から影響を受けたとされている。

 

        百首歌めしける時、くれの春のこころをよませたまひける

    花はねに鳥はふるすにかへるなり 春のとまりをしる人ぞなき

             【春の終りとともに花は根に、鳥は古巣に帰ってゆくのに、春の行き着く

                所はだれも知らないのだ】

 

保元の乱に破れて配流先の讃岐で長寛2年(1164)に46才で崩御された崇徳院を深く敬慕していた寂蓮は、建久2年(1191)頃の四国修行の旅の途次に、讃岐の院御所跡訪れ次の歌を詠んでいる。

 

   崇徳院さぬきの国におはしましけるところ、修行のついでに参りて、

   月のあかくはべりける夜、よみて奉りて侍りける   寂蓮

  【崇徳院が讃岐の国におられた所に、仏道を修めるために巡り歩いた折りに

   うかがって、月の明るい夜、詠んで差し上げました】

 

    むかしみし月は雲ゐの影ながら 庭はよもぎの露ぞこぼるる

   【昔見た月(院の面影)は雲居(宮中においでの頃)の光のままで、

            庭の蓬に露が置き、涙がこぼれ落ちることよ】

 

後に後小松院(※)が寂蓮のこの歌を「新古今和歌集第一の歌であると」讃えた逸話が『新古今抜書』(簗瀬一雄氏蔵本)に次のように記されている。

 

『此歌筆舌にのべがたき物也。花になれにし鳥も、落下すればかへらんと思ひたつなり。それはふるすともたのむに、われは日ごろなれにし花にわかれて ぼうぜんとしてくわんこん行かたもしらずとわびたる心なり。この歌此集第一と後小松のいんゐいかんありしよし、ある人の物語候しなり』

 

(※)後小松院:南北朝末期・室町初期の天皇(1377~1433)。後円融天皇の第1皇子。1932年(明徳3年)南北朝が合一。譲位後、院政。在位(1382~1412)。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(105)院政期(80)寂蓮の遁世(18)『千五百番歌合』(1)

『千五百番歌合』とは後鳥羽院が主催した正治2年(1200)の『院初度百首』と同年の『院第2度百首』、及び建仁2年(1201)の『院第3度百首』を後に歌合として纏め、それに判詞あるいは判歌を付して史上最大の「歌合」にしたもので、この中から『新古今和歌集』に90首が入集している。

 

詠進歌人は、

左方15人:後鳥羽院、良経、慈円、公継、公経、秊能、宮内卿、讃岐、小侍従、隆信、有家、保秊、良平、具親、顕昭

右方15人:惟明親王、通親、忠良、兼宗、通光、釈阿(俊成)、俊成卿女、円後、越前、定家、通具、家隆、雅経、寂蓮、家長、

 

「部立て」は、春20・夏15・秋20・冬15・祝5・恋15・雑10の100部で、左右に分かれた30人の歌人がそれぞれ100首を詠んだ3000首を番えて1500番の歌合とした。

 

判者は、「春一・二」は忠良、「春三・四」は俊成、「夏三・秋一」は良経、「秋二・三」は後鳥羽院、「秋四・冬一」は定家、「冬二・三」は秊経、「祝・恋一」は生蓮(師光)、「恋二・三」は顕昭、「雑一・二」は慈円が務めたが、「夏一・二」は判者を務めた通親が建仁2年(1201)に没したため無判となっている。

 

また、判者の中でも良経は「七言の二句ずつの判詞」、後鳥羽院は「折句による判歌」、顕昭慈円は「判歌」を用いるなど判の下し方が多様であったのもこの歌合の特徴であった。

 

この歌合での寂蓮は右方に属して勝40、持(引分)23、負26、無判11となかなかの好成績であったが、残念なことには、歌合としての結審・判定がなされたのは彼の没後の建仁3年(1203)春頃であった。

 

次にこの歌合における寂蓮の詠歌を幾つかを採りあげたい。

 

最初は『新古今和歌集』(巻二・春下・一五五番)に入集している次の歌から。判者は釈阿(俊成)であった。

 

        春四、 二百五十三番  左持(引分)  良平

    ちるおりもふるにまがひし花なれば またこのもとにのこるあはゆき

   【散るときも雪が降るのと同じように区別のつかない桜の花だから また

    木下に残っている淡雪であることよ】

 

            右          寂蓮

    ちりにけりあはれうらみのたれなれば 花のあととふ春のやまかぜ

   【桜の花ももう散ってしまった。山風が花を散らしたのであるのに、花を

    散らした恨みの相手は誰だと 花の散った跡を訪れて吹く春の山風よ】

 

            判詞         釈阿(俊成)

 

    左、又 このもとにのこるあはゆき、心詞をかしく侍るを、右、あはれうらみ

    のたれなればなどいへる心も宜しく侍るにや、よりて持(引分)にや侍らむ。

 

ところでこの寂蓮の歌は『古今和歌集』(巻二・春下・七十六番)に採られている素性法(※)の次の歌から影響を受けたとされている。

 

       さくらの花のちり侍りけるを見てよみける  そせい法し

 

     花ちらす風のやどりはたれかしる 我にをしへよ行きてうらみむ

    【桜の花を吹き散らす風が今夜泊まるところを 誰が知っているだろうか 

     私に教えて下さい。訪ねていって恨みを言ってやるのに】

 

(※)素性法師:平安前期の歌僧。生没年未詳。僧正遍昭の子。出家して雲林院に住む。別称、良因朝臣(よしよりのあそん)三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の代表的歌人。勅撰集に約六十首入集。清和天皇に仕え後に出家した。家集『素性法師集』

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(104)院政期(79)寂蓮の遁世(17)『正治院初度百首』(2)

次に『新古今和歌集』(巻第五 秋歌下 469番)にも採られた寂蓮の秋部の「露」を歌材に詠んだ次の歌を採りあげたい。

 

         物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは

          【露は物思うわたしの袖の涙から習ったのだろうか。秋風が吹けば堪えかねて

             散るということを。】

 

古来、「露」は、『万葉集』(第十二巻3042番)よみ人しらずの下記の歌でもしられるように、「古今和歌集」以降の勅撰集に歌材として多く詠まれてきた。

 

               朝日指 春日能小野尓 置露乃 可消吾身 惜雲無

   【朝日がさす春日の小野に置く露に似て、やがて消えてゆこうとする我が

    身は惜しくもなし】

 

ここでは下の句の「たへぬもの」の解釈に焦点を当ててみたい。

 

先ず、新古今和歌集については、『新古今和歌集』(小宮本)では「たへぬ物とは」の句を「絶ぬ」と記し、『新古今和歌集』(烏丸本・鷹司本)では「たえぬ」と本文に記している。

 

また、『新古今集聞書(後抄)』では「秋風ふけばこぼるる物なれど、又やがてをく故に、たえぬ物といえり」と、秋風が吹けば露はこぼれる物であるが、またすぐ置くために、絶えないものと言っているとして「絶えぬ」の意味を採用している。

 

ところが本居宣長は『美濃の家づと』で、「ふるき抄に、たへぬを、絶ずとおくことと注したるはたがへり」と記し、本来は「堪えることができない」の意味であると指摘している。

 

さて、寂蓮の詠んだ「物思ふ袖より露やならひけむ 秋風吹けばたへぬものとは」における『たへぬものとは』は、感情としての「堪え難い」を意味するのか、露は消えても次の露が置かれるという物理的な「絶えぬ」を表わしているのか。

 

ところで、21世紀に生きる私としては、自然現象の「露」を、置く物と表現する視点に目を見張った。寂蓮のこの歌を読んで、真っ先に思い浮かんだのは「一体誰が露を置くのよ」と身も蓋もない疑問だった。英語ではないが主語がないではないか。

 

しかし、それはそれとして、「露を置く」とは何と神秘的な表現であろうか。露が発生するのは殆ど夜半と思われるが、一体どのような存在(神か霊か)が、どのような手業で木や草の葉の上にそっと露を置くのであろうか。実に詩心だけでなく絵心も誘われる表現である。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』久保田淳 校注 新潮社版

新古今の景色(103)院政期(78)寂蓮の遁世(16)『正治院初度百首』

正治から建仁期(1199~1203)は後鳥羽院の主導による仙洞歌壇が形成されていったが、その最初の催しが正治2年(1200)の『院初度百首』で、正治2年7月に後鳥羽院から寂蓮に『正治2年院初度百首』への沙汰があり寂蓮は8月に寂蓮百首歌を提出して、それ以降、寂蓮は後鳥羽院歌壇に欠かせない存在となった。

 

また、この『院初度百首』の詠歌から79首が『新古今和歌集』に入集した事からも、新古今時代の幕開けを告げるイベントだったといえる。

 

正治院初度百首』での詠進歌人は、後鳥羽院、惟明親王式子内親王守覚法親王、良経、通親、慈円、忠良、隆房、秊経、経家、俊成、隆信、定家、家隆、範光、寂蓮、生蓮、静空(実房)、讃岐、小侍従、丹後、信広の23名。

 

そして部立(ぶだて:部類)は、春20,夏15、秋20、冬15、恋10、羈旅5、山家5、鳥5、祝5の計100首で、詠進期日は8月25日、最終提出日9月30日とされ、11月23日に中島宮で披講が行なわれた。

 

そのなかから、寂蓮が本歌取りの手法を採り入れた夏部の「花橘」を歌材として詠んだ次の歌を採りあげてみたい。

 

            軒ちかき花橘のにほひきて ねぬ夜の夢は昔なりけり

          【軒下近くに花橘の良い香りがして、夏の夜の眠れないときに見た夢は

              昔のことを思い起こさせてくれるものだなあ】

 

この歌は『古今和歌集』(巻三・夏139番)、あるいは『伊勢物語』などに収められている次の歌を本歌としている。

 

             題しらず       よみ人しらず

    さつきまつ花橘のかをかげば 昔の人の袖のかぞする

           【五月を待って咲く花橘の香りをかぐと、昔親しかった人の袖の香りを

              思い出すよ】                

 

寂蓮はよほど「軒ちかき花橘」の一句が気に入ったのか『寂蓮集』にも次の歌を収めている。

 

            軒ちかき花橘やにほふらん 覚えぬものを墨染の袖

          【軒の近くにある花橘は良い香りを漂わせているであろうか、知らず知らず

             のうちに黒い僧衣となったことよ】

 

さらに興味深いことは、寂蓮の歌仲間である小侍従が同じ『正治院初度百首』で「花たちばな」を歌材に次のように詠んでいることだ。

 

        吹ききつる花たちばなの身にしめば 我も昔の袖のかやする

         【風が吹いてきて、花橘の香りが身に強く感じられたので、私も昔親しかった

             人の袖の香りがすることよ】

 

当時「待宵(まつよい)の小侍従」と称された恋歌の名手の小侍従は、石清水八幡宮別当・紀光清の娘、そして若い頃は見目麗しかったであろう寂蓮(俗名:定長)が31歳の仁安4年3月に石清水八幡宮の臨時祭で舞人を務めた事と合わせて考えると、寂蓮と小侍従の相聞歌の感じがするのは私の深読みでしようか。

 

参考文献:『日本の作家100人~人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版