新古今の景色(21)女房文学(14)赤染衛門(6)歌に見る夫婦愛

赤染衛門は貞元元年(976)頃に出仕を通して大江匡衡朝臣と出会い結婚したとされるが、その頃、匡衡の従兄弟の為基に淡い恋心を抱いていた赤染衛門に匡衡を強く薦めたのは彼女の母であったことは前回述べた。 

 

ここでは、共に「中古三十六歌仙」の一人に選ばれ、夫は『後拾遺集』以下の勅撰集に12首、妻は『後拾遺集』以下の勅撰集に93首入集した優れた歌人であった二人の私家集「赤染衛門集」と「大江匡衡朝臣集」から二人の間に交わされた贈答歌を通して夫婦愛をしのんでみたい。

 

大江匡衡朝臣集から

   おほやけ所なる女のうしろめたくおぼえて

 虫のちをつふして身にはつけす共 思そめてし色なたかへそ

   返し

 むしならぬ心をたにもつふさては 何につけてか思ひそむへき

 

赤染衛門集から

   ゆめゆめちびきの石(※)にてをといひたりしに

 まつとせしほどに石とは成りにしを  又はちびきに見せわかでとや

   かへし

 松山のいしは動かぬけしきにて 思ひかけたるなみに越さるな

 

赤染衛門集から

   おほやけどころにては えまゐらじなどといひて

 住之江にはねうちかはす蘆鴨の ひとりにならむほどの秋風

   かへし

 はねかはすほども稀なるあし鴨の うきねながらも思ひ出やせむ 

 

赤染衛門から

   いまはたえにたりといふ所にありと聞きてやるみわの山のわたりにや

 わが宿は松にしるしもなかりけり 杉むらならば尋ねきなまし

   かへし

 人をまつ山ぢわかれず見えしかば 思ひまどふにふみすぎにけり

 

 【最後の贈答歌の場面は、夫の匡衡が稲荷の禰宜の娘と懇ろになって赤染衛門の許を久しく訪れないので、気を揉む赤染が匡衡が稲荷の禰宜の娘の所に滞在しているタイミングを見計らって歌を贈ったところ、それを読んで気恥ずかしくなった匡衡が赤染の許に戻り、その後は稲荷の禰宜の娘の所に通わなくなったという】

 

夫の浮気に直面しても取り乱すことなく優雅な歌を贈って夫の頭を冷やさせて円満に元の鞘に収まるという、贈答歌のコミュニケーション力を認識させられた。

 

(※)ちびき(千引)の石:千人で引くほどの重さの石

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

新古今の景色(20)女房文学(13)赤染衛門(5)初出仕と結婚

さて、赤染衛門の人生を、彼女の家集『赤染衛門集』『赤染衛門家集』に採集された歌も挿入しながらたどってみたい。

 

貞元元年(976)左大臣源雅信道長の室・倫子の父)邸に20才で初出仕。

 

赤染衛門の初出仕の主は、宇多天皇の曾孫に当たる誇り高き左大臣源雅信で、長女の倫子を将来は天皇の后にと考えて、和歌の名手平兼盛の血を引く赤染衛門を出仕させたとされる。

そして、この出仕を通して彼女は6才年上の大江匡衡と結婚と結婚している。

 

ところで、大江匡衡と結婚する前の赤染衛門は、匡衡の従兄弟で彼女と同世代の大江為基(文章博士従五位下・摂津守)と親密な交情を示す贈答歌をかなりの頻度で交わしたことが私家集に残されており、その中からいくつか取り上げてみたい。

 

    八講(※1)する寺にて       為基

おぼつかな君しるらめや足引の山下水のむすぶところを

   返し            赤染衛門

けふきくを衣のうらの玉にしてたちはなるをも香をば尋む

 

大江為基が病気の時赤染衛門が薬王品(※2)を書写して贈った歌 

  おなじ人わずらひしころ 薬王品を手づからかきて、これかたみに見よ くるしきをねんじてなむ書きつる後の世にかならず導けといひたりしに 

此の世より後の世までと契りつる 契りはさきの世にもしてけり

   返し             ためもと

ほど遠き此の世をさしていにしへに 誰ことでしてまず契りけむ

 

後に大江為基が法師になった時赤染衛門が若菜を贈った時の歌

  この人法師になりての頃 正月七日ひげこ(※3)にわかなを入れてやるとて 

春日野にけふの若菜をつむとても猶みよしのの山ぞ恋しき

    返し             

小夜更けてひとりかへりし袖よりも けふの若菜は露けかりけり 

 

赤染衛門は病弱であったが美男子の大江為基との結婚を望んでいたが、そんな彼女にしきりに言い寄ってくる大江匡衡を、赤染衛門の母が「結婚するなら美男子でも病弱な男より、醜男でも将来性のある男の方が良い」と強く薦めて押し切られたようだ。

 

(※1)八講(はっこう):「法華八講」の略。

(※2)薬王品(やくおうぼん):『法華経』の第二三品、「薬王菩薩本事品」の略

              称。

(※3)ひげこ:竹や針金などで作った籠で、編み残した端が髭のように出ているも

              の。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

新古今の景色(19)女房文学(12)赤染衛門(4)出生

清少納言紫式部和泉式部と共に摂関期の後宮文学を彩った赤染衛門の注目すべき点は、女房というキャリアをほぼ定年まで勤め挙げた一方で、良妻賢母として夫や子供に情を尽くし、かつ、晩年は85才に至るまで第一線の歌人として活躍したところにある。

 

まさに「人生100年」が謳われる現代にこそ、「長寿社会如何に生きるか」を考える上で参考にしたい赤染衛門の生涯をスケッチ風に展開してみたい。

 

1.出生

 

天暦6年(952) 将来の夫:大江匡衡出生(赤染衛門より6歳年上か)

天徳元年(957) 赤染衛門出生

 

藤原清輔の歌学書「袋草紙」に拠ると、赤染衛門は赤染時用の子供であるが、実は平兼盛の妾であった衛門の母が懐妊したまま時用に嫁して生まれたか、あるいは兼盛と離別した後に生まれた子供であるとされ、その事を知った兼盛が子供を引き取ろうとしたが母が承知せず裁判沙汰になったものの、検非違使であった赤染時用と母が通じたことから、兼盛はやむを得ず手を引いた、と、される。

 

しかし、赤染衛門歌人として活躍した当時の歌壇は、彼女の歌の才能は、実父で優れた歌人平兼盛の才能を引き継いだものと見ていたようだ。

 

その平兼盛は、藤原範兼が撰した「三十六人撰」、および藤原公任が撰した「三十六人撰」の一人に選ばれ、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『詞華集』『続詞華集』に入集した優れた恋愛歌人で、百人一首四十番に採られた兼盛の次の歌は現代も広く親しまれている。

「忍ぶれど色に出にけりわが恋(こひ)は ものや思ふと人の問ふまで」

 

そして同じく百人一首五十九番では赤染衛門の次の歌が採られ親子揃っての入集を果たしている。

「やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな」

 

ところでこの歌が、妹の代作として若き貴公子藤原道隆(後の一条中宮定子の父)に贈られたエピソードは既に述べた。

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2019/09/28/102719) 

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

新古今の景色(18)女房文学(11)赤染衛門(3)赤染・式部(2)

ところで「俊頼髄脳」を引用して長明に和泉式部赤染衛門のどちらが歌詠みの上手であるかを語ったある人は、先に述べた藤原公任の評価に二つの疑念を挙げている。

 

70 式部・赤染勝劣のこと(2)当時の歌壇と紫式部の評価

 

「一つ目の疑念、

公任大納言は和泉式部の方が赤染衛門よりも歌人として優れていると断じているが、当時のしかるべき歌の会や晴の歌合などでは、赤染の歌ばかりが選ばれて式部の歌は選から漏れる事が多かった。

 

二つ目の疑念、

式部の「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」と「津の国のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重葺き」の歌の優劣においては、「はるかに照らせ」の歌は詞も歌の姿も殊の外格調が高く、その上に情趣もあると評価する声が多かったのに、そのところを公任大納言はどのように感じられたのか、どうもはっきりしないのです」と。

 

ここでは二つ目の疑念は脇に置いて、一つ目の疑念について長明が解釈を試みたところ、式部と赤染の歌人として評価は藤原公任一人の評価で決まった事ではなく、世間の多くの人たちも式部の方が優れていると評価していたからこそ確定したのである。

 

但し、才能の評価は、本人が生きている間は作品そのものだけでなく、その人の日ごろの身の処し方によって左右される事が大きく、当時の歌壇では、歌において和泉式部は並ぶ者のない上手と見なされていいたが、日々の身の振る舞いや他人への心遣いなども加味して赤染衛門に高い評価を与えたようだ。

 

その一つの例として、長明は和泉式部赤染衛門と同僚だった紫式部の二人に対する評価を『紫式部日記』から次のように引用している。

 

和泉式部の人柄はとても感心できるものではない。しかし、文を書く事に置いては才能が感じられ言葉の端々に何かしら読む人の眼を留める趣があるが、歌人としては本当の歌詠みとは言えないのではないか。ただ口に任せた詞のなかに必ず人の耳をそばだてる気の利いた一節を添えているに過ぎない。

しかし、世の人は和泉式部を優れた歌詠みと思っているようだが、そこまで深く彼女の歌を掘り下げて評価している人はいないでしよう。和泉式部は、ただ単に口先だけで歌を詠む人のようだ。だからこちらが恥ずかしくなるほどの歌の上手とは思っていない。

 

丹波守の北の方(丹波大江匡衡(※)の妻赤染衛門)を宮(中宮彰子)や殿(藤原道長)の周辺では匡衡衛門(まさひらえもん)とお呼びしています。 

赤染衛門は際立った身分ではないが、まことに品のある歌詠みです。何かにつけて絶え間なく歌を詠みちらすようなことはないが、私の耳にした限りでは何気ない折節のことなどをこちらが恥かしく思うほどに見事な詠いぶりをされている」 

 

ところで、『新古今和歌集』は和泉式部の歌を25首、赤染衛門の歌を10首採用している。

 

(※)大江匡衡(おおえまさひら):平安中期の漢詩人・歌人従五位下文章博士式部大輔中古三十六歌仙

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
      

 

新古今の景色(17)女房文学(10)赤染衛門(2)赤染・式部(1)

赤染衛門(※1)と言えば摂関期の女房歌人として何かと同僚の和泉式部(※2)と比較されていたようで、人の才能の評価とはどういう視点でなされるのか、鴨長明の『無名抄』(70 式部・赤染勝劣のこと)を引用しながら探ってみたい。

 

70 式部・赤染勝劣のこと(1)藤原公任の視点 

ある人が語るには、
「『俊頼髄脳』(※3)で、定頼中納言(※4)が父の公任大納言(※5)に「式部と赤染とどちらが優れた歌人でしようか」と尋ねたところ、大納言は「式部は『こやとも人をいうべきに(※6)』を詠んだ歌人であり、赤染と同列に論ずべきではない」と応えられたので、式部のベストの歌については父と世の人との評価が異なっていると思った中納言は「式部の歌では『はるかに照らせ山の端の月(※7)』をこそ世間の人は一番と評しているようですが」と重ねて問いました。 

大納言はそれに応えて「そのことこそ世の人がわからない事を言っているのだ。『暗きより暗きに』入ることは、経(法華経)の文であるから、末の区の『はるかに照らせ山の端の月』は上の句にひかれてそれほど工夫をしなくても思い浮かぶことばなのだ。 

それに対して『こやとも人をいうべきに』と上の句を詠んで『隙(ひま)こそなけれ蘆の八重葺き』と末(下)の句を詠むことこそ並みの歌人の思い浮かぶ事ではない」とお答えになった。」

 

上記からは、自らも第一級の歌人であり、かつ、『和漢朗詠集』などを撰して撰者としても第一人者であった藤原公任が、「津の国のこやとも人をいふべきに、ひまこそなけれ蘆の八重葺き」という並外れた歌を詠む優れた歌人和泉式部赤染衛門を同列に語るべきではないと和泉式部を高く評価していたこと、 

さらに、和泉式部の歌では、『こやとも人をいうべきに』の歌の方が「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」より優れている事は明らかであるのに、どうしてそんな分りきった事を聞くのかねと息子に対応している姿が浮かんでくる。

 

(※1)赤染衛門:平安中期の歌人。生年は天徳元年(957)と見なされ、長久2年(1041)に85歳で弘徽殿女御歌合の出詠が確認されている。大江匡衡の妻。藤原道長の室・倫子に仕え、その後、道長の娘・中宮彰子の女房集団を支える中心的な役割を果たした。中古三十六歌仙。『赤染衛門集』。『新古今和歌集』に10首入集。

 

(※2)和泉式部:平安中期の歌人。生没年未詳。小式部内侍の母。中宮彰子に仕え、藤原保昌と再婚する。中古三十六歌仙。『和泉式部日記』『和泉式部集』。『新古今和歌集』に25首入集。

 

(※3)『俊頼髄脳』:当該箇所は「歌のよしあしをも知らむことは、殊の外のためしなり。四条大納言に子の中納言の、『式部と赤染と、いずれかまされるぞ』と、尋ねもうされければ、『一口にいうべき歌よみにあらず・・・』で始まる。

 

(※4)定頼中納言藤原定頼。平安中期の歌人。公任の息子。権中納言正二位に至る、寛徳2年(1045)51歳で没。中古三十六歌仙。『権中納言定頼卿集』。『新古今和歌集』に4首入集。

 

(※5)公任大納言:藤原公任。平安中期の歌人。関白頼忠の息子。権大納言正二位に至る。四条大納言と称し、長久2年(1041)に76歳で没。『和漢朗詠集』を初め多くの秀歌選の撰者。中古三十六歌仙。歌集『大納言公任集』・歌学書『新撰髄脳』・有職故実書『北山抄』などを著す。『新古今和歌集』に6首入集。能筆で知られ現在も古筆として珍重されている。

 

(※6)『こやとも人をいふべきに』:「津の国のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重葺き【現代語訳:摂津の国の昆陽(こや)ではありませんが、「来や」つまり「訪ねていらっしゃい」とあなたに言いたいのですが、蘆を幾重にも葺いた小屋に隙間がないように、人の見る目の隙(ひま)がないので言えません】」を指す。

 

(※7)『はるかに照らせ山の端の月』:「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月【現代語訳:わたしは暗いところからさらに暗い迷いの世界に入ってしまうでしよう。遥かかなたから照らし出してください、山の端に懸る月(性空上人様)よ】」を指す。公任の撰集した『拾遺集』哀傷・1342詞書「性空上人のもとによみてつかわしける」より。

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

 

 

新古今の景色(16)女房文学(9)赤染衛門(1)定子の父との贈答歌

やすらはで、寝なましものを小夜ふけて、傾くまでの月をみるかな

 

この歌は藤原定家によって『百人一首』の59番に採られた赤染衛門の歌で、当時彼女の妹の許に通っていた若き貴公子藤原道隆少将(後の中宮定子の父)に贈ったものである。

 

その頃、赤染衛門は久しぶりに里下りをしていて、藤原行成卿筆の『和漢朗詠集』の書写をしていたが、ふとみるとそばにいた妹がいつの間にか姿を消して1時間ほど経ても戻ってこないので探しにゆくと、妹は寝待月(※)が頭上をかなりすぎて西の空に傾きかけているのに、ぽつんと一人座って月を眺めていた。

 

そういえば、昼頃に道隆少将から「今夜訪ねる」との文が届いていたのにも関わらず、一向に姿を現さない彼を妹は一途に待ち続けていたのであろう。

 

そんな妹が哀れにもいじらしくも思えた赤染衛門は、妹の待つ気持ちの切なさを彼女に代わって歌をしたため道隆少将に贈ったのである。

 

この赤染衛門の代筆歌の効果は覿面に現れ、次の夜の8時頃、道隆は随身二人を伴って馬で妹の元に駆けつけたものの、まだ暁とはいえない夜の暗いうちに「宮仕えは辛い」と言い訳しつつ去っていき、その後、道隆と赤染衛門の妹が結ばれることはなかった。

 

(※)寝待月(ねまちづき):月の出る時刻が遅いため寝て待つ満月から数えて4日目にあたる、陰暦19日の夜の月。また、陰暦20日前後の月。臥待月(ふしまちづき)とも。

 

参考文献:『日本の作家10 王朝の秀歌人 赤染衛門』 上村悦子著 新典社

新古今の景色(15)女房文学(8)清少納言のパトロンは道長か(4)

さて、いよいよ「道長清少納言パトロンか」の結論にせまりたい。

 

中宮定子付きの同僚女房たちから『少納言左大臣道長方の人たちと通々なのだ』と疑われて居たたまれなくなり、出仕を退き実家で鬱々と暮らしていた清少納言の許に、定子から貴重な紙が届けられたことを『枕草子第259段』で次のように記している。

 

【かつて、中宮定子や女房達と気さくなお喋りをしていた頃に『人生に腹が立ってむしゃくしゃして、地獄へでもどこへでも行ってしまいたいような気持ちになった時に、上等なものすごく白い紙に清らかな筆、あるいは白い色紙や陸奥紙などを得られれば、それだけで気分が良くなって、この紙があればしばらくは生きていても良いな』などと、私が上等な白い紙や、白地が際だつ高麗縁の紙などがあると気分が良くなることを話したのを中宮様が覚えていて下さって、『早く参上せよ』との文とともに素晴らしい紙20枚を包んだものを使いが届けてくれた】

 

ここには、口にした清少納言自身がすっかり忘れていた言葉を中宮定子が覚えていて、気鬱の日々を過ごす大事な使用人の気を晴れさせようと、これさえあれば清少納言がご機嫌になると自ら口にしていた貴重で高価な白い紙20枚(幅2尺1寸高さ1尺2寸)を遣いに届けさせたのだから、彼女が感極まって次のように記すのも頷ける。

 

【『このように口にするのも畏れ多い神(頂いた紙)のお陰で私は鶴(千年)も生きられそうです』と中宮様に申し上げて下さいませ、と、使いの雑仕女に青い綾の単衣を褒美に与えて帰らせ、この紙を冊子(下図)に造ったりしているうちに浮き浮きして鬱陶しさが消え、「をかし」と思うこころが生まれてきた】

 

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 そして、中宮定子から贈られた貴重な紙を得て清少納言はあれこれ思いつく事を書き続けることで日々の気鬱から解放されただけでなく『枕草子』に結実したのだ。

 

気鬱の部下に、当人にとって一番気が晴れる「何か」を与えて辛い環境から抜け出させる、定子が与えた貴重な白い紙は、結果的に清少納言にライティング・セラピーの処方となって彼女を立ち直らせた事になる。私も中宮定子のような部下思いの雇用主の許で働いてみたいものだと羨ましく感じた。

 

ところで、当時の女房文学のパトロンを見極める上での大きなポイントは、誰が料紙(紙)を提供したかが鍵になると私は考える。

 

紙自体は中国の発明品だが、それは布反故(使い古した布)を原料にしていたので色は黒ずんでいた。 

ところが、女房文学が咲き誇った時代に使用された白い紙は日本の技術の粋を極めた貴重品だった。当時の日本は楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの繊維を原料として使い始めてから、紙の技術が急速に進み、特に水の多い日本では「晒す」技術が発達したため「白い紙」が産出できた。

 

そして、この貴重で高価な「白い紙」をふんだんに使えるには権力者の後ろ盾がなければ叶わなかったのである。 

 

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枕草子絵から火鉢の前で斎院選子内親王からの手紙を読む中宮定子、右端は清少納言の場面』「日本の美術48号白描絵巻」至文堂より

 

参考文献:『新潮日本古典集成 枕草子』 萩谷 朴 校注