清少納言、紫式部、和泉式部と共に摂関期の後宮文学を彩った赤染衛門の注目すべき点は、女房というキャリアをほぼ定年まで勤め挙げた一方で、良妻賢母として夫や子供に情を尽くし、かつ、晩年は85才に至るまで第一線の歌人として活躍したところにある。
まさに「人生100年」が謳われる現代にこそ、「長寿社会如何に生きるか」を考える上で参考にしたい赤染衛門の生涯をスケッチ風に展開してみたい。
1.出生
天暦6年(952) 将来の夫:大江匡衡出生(赤染衛門より6歳年上か)
天徳元年(957) 赤染衛門出生
藤原清輔の歌学書「袋草紙」に拠ると、赤染衛門は赤染時用の子供であるが、実は平兼盛の妾であった衛門の母が懐妊したまま時用に嫁して生まれたか、あるいは兼盛と離別した後に生まれた子供であるとされ、その事を知った兼盛が子供を引き取ろうとしたが母が承知せず裁判沙汰になったものの、検非違使であった赤染時用と母が通じたことから、兼盛はやむを得ず手を引いた、と、される。
しかし、赤染衛門が歌人として活躍した当時の歌壇は、彼女の歌の才能は、実父で優れた歌人の平兼盛の才能を引き継いだものと見ていたようだ。
その平兼盛は、藤原範兼が撰した「三十六人撰」、および藤原公任が撰した「三十六人撰」の一人に選ばれ、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『詞華集』『続詞華集』に入集した優れた恋愛歌人で、百人一首四十番に採られた兼盛の次の歌は現代も広く親しまれている。
「忍ぶれど色に出にけりわが恋(こひ)は ものや思ふと人の問ふまで」
そして同じく百人一首五十九番では赤染衛門の次の歌が採られ親子揃っての入集を果たしている。
「やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな」
ところでこの歌が、妹の代作として若き貴公子藤原道隆(後の一条中宮定子の父)に贈られたエピソードは既に述べた。
(https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2019/09/28/102719)