新古今の景色(17)女房文学(10)赤染衛門(2)赤染・式部(1)

赤染衛門(※1)と言えば摂関期の女房歌人として何かと同僚の和泉式部(※2)と比較されていたようで、人の才能の評価とはどういう視点でなされるのか、鴨長明の『無名抄』(70 式部・赤染勝劣のこと)を引用しながら探ってみたい。

 

70 式部・赤染勝劣のこと(1)藤原公任の視点 

ある人が語るには、
「『俊頼髄脳』(※3)で、定頼中納言(※4)が父の公任大納言(※5)に「式部と赤染とどちらが優れた歌人でしようか」と尋ねたところ、大納言は「式部は『こやとも人をいうべきに(※6)』を詠んだ歌人であり、赤染と同列に論ずべきではない」と応えられたので、式部のベストの歌については父と世の人との評価が異なっていると思った中納言は「式部の歌では『はるかに照らせ山の端の月(※7)』をこそ世間の人は一番と評しているようですが」と重ねて問いました。 

大納言はそれに応えて「そのことこそ世の人がわからない事を言っているのだ。『暗きより暗きに』入ることは、経(法華経)の文であるから、末の区の『はるかに照らせ山の端の月』は上の句にひかれてそれほど工夫をしなくても思い浮かぶことばなのだ。 

それに対して『こやとも人をいうべきに』と上の句を詠んで『隙(ひま)こそなけれ蘆の八重葺き』と末(下)の句を詠むことこそ並みの歌人の思い浮かぶ事ではない」とお答えになった。」

 

上記からは、自らも第一級の歌人であり、かつ、『和漢朗詠集』などを撰して撰者としても第一人者であった藤原公任が、「津の国のこやとも人をいふべきに、ひまこそなけれ蘆の八重葺き」という並外れた歌を詠む優れた歌人和泉式部赤染衛門を同列に語るべきではないと和泉式部を高く評価していたこと、 

さらに、和泉式部の歌では、『こやとも人をいうべきに』の歌の方が「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」より優れている事は明らかであるのに、どうしてそんな分りきった事を聞くのかねと息子に対応している姿が浮かんでくる。

 

(※1)赤染衛門:平安中期の歌人。生年は天徳元年(957)と見なされ、長久2年(1041)に85歳で弘徽殿女御歌合の出詠が確認されている。大江匡衡の妻。藤原道長の室・倫子に仕え、その後、道長の娘・中宮彰子の女房集団を支える中心的な役割を果たした。中古三十六歌仙。『赤染衛門集』。『新古今和歌集』に10首入集。

 

(※2)和泉式部:平安中期の歌人。生没年未詳。小式部内侍の母。中宮彰子に仕え、藤原保昌と再婚する。中古三十六歌仙。『和泉式部日記』『和泉式部集』。『新古今和歌集』に25首入集。

 

(※3)『俊頼髄脳』:当該箇所は「歌のよしあしをも知らむことは、殊の外のためしなり。四条大納言に子の中納言の、『式部と赤染と、いずれかまされるぞ』と、尋ねもうされければ、『一口にいうべき歌よみにあらず・・・』で始まる。

 

(※4)定頼中納言藤原定頼。平安中期の歌人。公任の息子。権中納言正二位に至る、寛徳2年(1045)51歳で没。中古三十六歌仙。『権中納言定頼卿集』。『新古今和歌集』に4首入集。

 

(※5)公任大納言:藤原公任。平安中期の歌人。関白頼忠の息子。権大納言正二位に至る。四条大納言と称し、長久2年(1041)に76歳で没。『和漢朗詠集』を初め多くの秀歌選の撰者。中古三十六歌仙。歌集『大納言公任集』・歌学書『新撰髄脳』・有職故実書『北山抄』などを著す。『新古今和歌集』に6首入集。能筆で知られ現在も古筆として珍重されている。

 

(※6)『こやとも人をいふべきに』:「津の国のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重葺き【現代語訳:摂津の国の昆陽(こや)ではありませんが、「来や」つまり「訪ねていらっしゃい」とあなたに言いたいのですが、蘆を幾重にも葺いた小屋に隙間がないように、人の見る目の隙(ひま)がないので言えません】」を指す。

 

(※7)『はるかに照らせ山の端の月』:「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月【現代語訳:わたしは暗いところからさらに暗い迷いの世界に入ってしまうでしよう。遥かかなたから照らし出してください、山の端に懸る月(性空上人様)よ】」を指す。公任の撰集した『拾遺集』哀傷・1342詞書「性空上人のもとによみてつかわしける」より。

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社