新古今の景色(49)院政期(24)歌林苑(14)源仲綱

源頼政の長男・仲綱は父と共に治承4年(1180)に宇治川の合戦で敗死して55才の生涯を終えたが、若い頃から父の薫陶を受けて歌道に勤しみ幾つかの歌合に座を連ね『千載和歌集』に16首入集している。

 

ここでは父子敗死の前年、治承3年(1179)10月18日に当時の右大臣九条兼実邸で催された『右大臣家歌合』での仲綱の歌に焦点を充ててみたい。

 

この歌合は、作者20名が各題10首ずつ計200首詠んだなかから選んだ60

首を番(つが)える「撰歌合」の形で行われたもので、撰者の藤原俊成は出家の身で

あったことから、撰歌や結審の場には列せず後日の判審であった。

ところで、この歌合では右大臣兼実が女房の名で出詠し、20名の作者のなかに歌林苑会衆が5名含まれているのが興味深い。

 

以下にこの歌合の概要と仲綱が出詠した歌を抜粋する(判詞は省略)。

 

【題】 霞 花 子規 月 紅葉 雪 祝 戀 旅 述懐

歌人】(下線は歌林苑会衆

 左方:女房(兼実公) 皇太后宮大夫入道(俊成) 季經朝臣 隆信朝臣 行頼朝臣

    師光 良清 俊恵 寂蓮 別當局皇嘉門院女房

 右方:大貮入道 源三位頼政 經家朝臣 基輔朝臣 資隆朝臣 仲綱 資忠 顕昭 

    道因 丹後右府女房

【判者】皇太后宮大夫入道釋阿(藤原俊成

 

≪3番≫  持(引分)

左 寂蓮:〔たちかへり来(く)る年なみや越(こ)えぬらん 霞かかれる末(すえ)

      の松(まつ)山〕

右 仲綱:〔満(み)つ潮(しほ)にかくれぬ沖の離(はな)れ石 霞(かすみ)にし

      づむ春のあけぼの〕

 

≪27番 ≫  左勝

左 女房(兼実):〔日を經(へ)つつ都しのぶの浦(うら)さびて 浪よりほかの音

          づれもなし〕

右 仲綱:    〔宮城野の木(こ)の下(した)露を打(うち)はらひ 小萩かた

          敷(し)きあかしつるかな〕

 

≪30番≫  持(引分)

左 女房(兼実):〔寝(ね)ざめして思(おも)ひつらぬる身の憂さの 數にとふと

          や鴫(しぎ)の羽(はね)がき〕

右 仲綱:    〔ふけにけるわがよのほどは元結(もとゆひ)の 霜を見てこそ

          おどろかれけれ〕

 私の感想:熟練歌人の寂蓮と兼実を相手に仲綱は大健闘している。

 

引き続いて仲綱の『千載和歌集』入集歌から次の2首を紹介したい。

 

      巻第二 春歌下

97 山ざくらちるを見てこそ思ひ知れ たづねぬ人は心ありけり

   【山桜の散るのを見て身にしみて感じたよ。花見に来ない人は思慮深い人だった

    のだと。散る花を前にこんなつらい思いをしなくてもすむのだから】

 

      巻第二 春歌下

128 身のうさも花見しほどはわすられき 春のわかれをなげくのみかは

    【わが身の憂さも花を見ていた時は忘れられたことだ。花が散ってしまえば

     慰められるものとてない。再び憂き身にたちかえるのもつらいことだよ】

 

参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館    

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集

            片野達郎、松野陽一 校注 岩波書店刊行

新古今の景色(48)院政期(23)歌林苑(13)源頼政(2)

 

 音にのみ聞き聞かれつつ過ぎ過ぎて 見きなわれ見きその後はいかに(頼政

 【再会を待ち望んで、堪えがたい思いをしております】

 

 恋ひ恋ひて見きわれ見えきその後は しのびぞかぬる君はよにあらじ(空仁)

 【しかし、あなたはそれほどでもないのではありませんか】

 

このうち解けた贈答歌は歌林苑の会衆同志の源頼政と空仁法師(※1)の間で交わされたものである。

 

『源三位頼政集』によると、兼ねてから一度会いたいと思っていた空仁法師に、歌林苑で催された人丸(麻呂)影供(※2)でやっと対面する機会を得た頼政だが、実は空仁法師の側も自分に会いたいと思っていたことが判明して、後日に交わしたのが上記の贈答歌であった。

 

歌林苑は歌の流派、年齢、身分・階層に関わりなく、ひたすら和歌への情熱、精進への思いの強い、どちらかと言えば年配者が中心の在野の歌人達が集まって、月例あるいは臨時の歌会、人丸影供、そして、時に遠方に去る会衆との別れを惜しむ歌会などが持たれていた。

 

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上図は、人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』 藤原隆章筆 「芸術新潮2018年9月号より」

 

ところで『花にもの思う春~白洲正子新古今集』で著者の白洲正子は、

〔俊成ほどの人物に『いみじき上手』と賞讃された頼政も、新古今集にはわずか三首しかえらばれていない。新古今の目的が、武家へ対する抵抗にあったためであろうが、それにしても、少なすぎる。頼政は治承4年(1180)、新古今ができる二十五年も前に死んでいるから、今様風の新しさに欠けるところがあったのかもしれない〕

と、嘆いている。

 

これは私の推測だが、後白河法皇の寵姫で平家一門の建春門院を祖母とする後鳥羽院には、自分は平家の血筋をひいているという思いから、以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げて宇治河の合戦で敗死するも、頼朝挙兵から鎌倉政権樹立に至る引き金を引いた源頼政は受け容れがたかったのではないか。

 

因みに、頼政を高く評価した藤原俊成が撰した『千載和歌集』には14首入集している。

以下に、頼政の『千載和歌集』、『新古今和歌集』入集歌からそれぞれ1首ずつ引用した。

 

        『千載和歌集』  巻第一 春歌上

38 天(あま)つ空ひとつにみゆる越(こし)の海の 波をわけても

   帰(かへ)るかりがね

   【空と海とがひとつになって見分けがつかぬ、渺々(びようびよう)たる越の

    海の、波をわけても帰って行く雁であることよ】

 

        『新古今和歌集』 巻第三 夏 歌

       夏ノ月をよめる

267 庭の面(おも)は まだかわかぬに 夕立の 空さりげなく 澄める月かな

    【庭の面はまだ乾いていないのに 夕立を降らせたことはうそのような空に

     さりげない様子で澄んだ月がでているよ】

 

(※1)空仁法師:空人とも、俗名清長、大中臣氏、少輔入道と号す、生没年未詳、定長男、法輪寺僧、永暦元年(1160)『清輔家歌合』に参加、歌林苑会衆、西行・西住とも交友を持つ、『千載和歌集』初出、4首入集。

 

(※2)人丸(麻呂)影供:柿本人麻呂の肖像を掲げて、人麿を供養しつつ行う歌会。

 

参考文献:『鴨長明』三木紀人 講談社学術文庫

                  『花にもの思う春~白洲正子新古今集白洲正子 平凡社

 

新古今の景色(47)院政期(22)歌林苑(12)源頼政(1)

清和源氏の棟梁で、治承4年(1180)に以仁王を奉じて平家に謀叛し、77才で敗死した源頼政(※1)については既に詳しく採り上げているので、

 

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/153946

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2020/05/29/213921

 

ここでは、歌林苑会衆としての源頼政を採り上げたい。

 

鴨長明は『無名抄』「8 頼政の歌、俊恵選ぶこと」で俊恵と源頼政の深い繋がりを、次のように述べている。

 

[建春門院殿上歌合(※2)の題詠歌「関路落葉」で、頼政は次の歌を詠んで勝を得、さらに『千載和歌集 秋下』に入集した。

 

  都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関

  【旅立った時の都ではまだ青葉の状態で見たが、紅葉が散り敷いているよ、

   ここ白河の関では】

 

ところで、歌会・歌合の出詠に備えて常に準備に怠りのない頼政は、「関路落葉」の題で幾つかの歌を準備し、どの作品を出詠するかで悩んだ末に、やはりこの歌をと決めたものの、今一つ自信が持てなかったのか、歌合に出席する間際に俊恵を呼び寄せて歌を見せた。

 

そして、俊恵から

「この歌は、能因法師の『(都をば霞とともに立ちしかど)秋風ぞ吹く白河の関』と似ています。しかし、そうであっても、この歌は歌合の場で詠むと一層栄えるに違いないと私は思います。貴方は、あの能因法師の歌とは異なる詠み方ができるのだと、むしろ能因法師の歌を圧倒する意気込みで詠んだと私は見ました。ということで、似ているから欠点とすべき歌の姿ではないと思います」

との心強い意見を得て、頼政は、車に乗る直前に、

「あなたの判断を信じて、この歌を出詠する事にしよう。後の責任はとってもらいますよ」と言って出かけていった。

 

その後、勝ちの判定を得た頼政が帰宅後すぐに遣わした礼を受けた俊恵は、

「私は良いと思って自分の意見を述べたが、勝負の結果を聞くまでは胸が潰れる思いをした。しかし、その結果を知って、自分ながら『たいそうな手柄を立てた』と思ったものです」と、俊恵は私に語りました。]

 

(※1)源頼政:長治元年(1104)~治承4年(1180)。享年77歳。清和源氏、仲正の息子。仲綱・二条院讃岐の父。蔵人・兵庫頭を経て右京権太夫従三位に至る。治承4年5月後白河院皇子以仁王を戴き平家追討の兵を挙げたが宇治川の合戦で敗れ、平等院で自害した。家集『源三位頼政集』

 

(※2)建春門院殿上歌合:建春門院北面歌合。嘉応2年(1170)10月19日(歌合本文は10月16日)に催された。題は「関路落葉」「水鳥近馴」など3題。作者は藤原実定・同隆季・同俊成・同重家・同清輔・同隆信・源頼政・同仲綱等20名。判者は藤原俊成

 

 参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

新古今の景色(46)院政期(21)歌林苑(11)賀茂重保(2)

俊恵や祐盛とも親交を結び、歌林苑と深く関わった賀茂重保の歌人としての重要な実績の一つに、彼が神主を務めた上賀茂神社に月詣でする人々の歌を中心とした『月詣和歌集』の編纂が挙げられるが、その基礎となるものとして、同集の序に「しかれば、いそのかみふりにし跡を学び36人の百首を集めて神の御たからにそなふ」と記されているように36人の歌人に百首歌の奉献を依頼した。

 

ここでの36人とは三十六歌仙の数にあわせたもののようで、①公卿②殿上人あるいは受領層③新興武家階層④僧侶⑤権門に仕える女房などの広い階層に亘る、次の歌人が含まれている。

 

藤原頼輔・経家・資隆・季経・資賢・隆信・実国・親盛・平経正・経盛・親宗・忠度・源有房・師光・惟宗広言・祝部成仲・鴨長明・殷富門院大輔・小侍従・二条院讃岐・皇太后宮大進・登連・覚綱・寂然・寂蓮。

 

時を経てみれば錚々たる歌人達であるが、賀茂重保が奉献を依頼した時点では歌の名手ではなく殆どが二流以下の歌人を撰んだとされている。その中でも際立っていたのは、大半が高齢者歌人の中で鴨長明だけが当時28才の青年だった事だ。

 

そしてこの『月詣和歌集』の編集に当たって賀茂重保は、俊恵の弟で既に老隠遁歌僧であった祐盛法師の協力を得て、自分たちの余命の短さを念頭に入れて短期日内に完成させたようで、成立は寿永元年(1182)10月頃であった。

 

しかし、賀茂重保も祐盛法師も自らの余命を読み違えたようで、『月詣和歌集』完成時の賀茂重保は64才、祐盛法師は65才だが、賀茂重保はその後9年、正治元年(1200)までは生存したとされる祐盛法師は18年も存命した。

 

参考文献:『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

新古今の景色(45)院政期(20)歌林苑(10)賀茂重保(1)

                               『新古今和歌集』 巻第十七 雑歌中

        俊恵法師身まかりてのち 年ごろ(長年)つかはしてける薪(たきぎ)など、

       弟子どものもとへつかはすとて

1667 けぶり絶えて 焼く人もなき 炭竃(すみがま)の あとのなげきを

     たれかこるらむ

     【煙も絶えて、焚く人もいなくなったあと、だれが炭竃の投げ木を伐って

      くるのでしよう。房の主である俊恵法師がお亡くなりになったあとの、

      弟子の皆さんがたの生活の資を、だれが集めてくるのでしようか。

      心配なので、薪をお送りします】

 

上記は賀茂重保が俊恵法師亡き後の歌林苑を心配して詠んだ歌である。

 

俊恵と親交を深め、歌林苑の会衆であり支援者であった賀茂重保は、賀茂別雷社(上賀茂神社)神主・重継の息子として元永2年(1119)に生まれ、父の跡を継いで従四位・賀茂別雷社神主を務め建久2年(1191)に73才で没した。

 

歌人としての賀茂重保は、仁安1年(1166)に「経盛家歌合」、嘉応2年(1170)に「実国家歌合」、承安2年(1172)に「広田社歌合」などに出詠しつつ、治承2年(1178)3月には藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開催したのを初め、自らも自邸で歌合・歌会を催して賀茂社歌壇を形成し、『千載和歌集』初出で7首入集、『新古今和歌集』に2首入集。

 

ここで賀茂重保の『千載和歌集』入集歌から1首採り上げてみた。

 

        『千載和歌集』 巻第三 夏歌

      郭公の歌とてよめる

150 ほととぎすしのぶるころは山びこのこたふる声もほのかにぞする

    【時鳥がまだ忍び音に鳴くころは 山彦のこだまもあるかなきか、

     ほのかに聞こえることだ】

 

俊恵の晩年の消息を伝えるものとして、賀茂重保が養和2年(1182)に上賀茂神社で催した尚歯会(※)が挙げられる。これは高齢を言祝ぐ催しで、唐の白楽天に倣い主催者を含めて7人で催すことから、重保の呼びかけに応じた参会者は、祝部成仲・勝命・俊恵・片岡(賀茂)家能・祐盛・藤原敦仲の6人であった。この時の俊恵は70才で、記録の上でこれ以降の俊恵の消息は把握されていない。

 

(※)尚歯会(しょうしかい):高齢者を祝う会。敬老会。また、老人を請じて詩歌を作り遊楽を催す会。七叟と言って主人を入れて7人の老人が集まり、それ以外は相伴(しょうばん)として列せしめた。中国で845年白楽天が催したのが初め。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

                  『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

                  『新日本古典文学大系10 千載和歌集』                          

                                                         片野達郎・松野陽一 校注 岩波書店刊行

 

 

新古今の景色(44)院政期(19)歌林苑(9)藤原清輔(2)

ところで、藤原清輔の略伝は次のようなものである。

 

藤原清輔は長治元年(1104)に藤原顕輔男の息子として生まれ治承元年(1177)に74才で没した。弟に、重家、顕昭、季経がおり、極位は正四位下太皇太后宮太大進。

 

父顕輔より人麿影を授けられた事から歌道の六条藤家を継ぎ、一時は台頭する藤原俊成の御子左家と歌壇を二分し、歌合を主催し、多くの歌合の判者を務め、嘉応元年(1169)から嘉応3年(1171)頃には九条兼実家の歌の師も務め、準勅撰集『続詞華集』を撰し、歌学書『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』を著わす。

中古六歌仙、千載初出、『千載和歌集』20首入集、『新古今和歌集』12首入集。

 

次に『千載和歌集』、『新古今和歌集』の藤原清輔の入集歌から一首ずつ採り上げてみた。

 

       『千載和歌集』 巻第一 春歌上

     崇徳院に百首歌たてまつりける時、春駒の歌とてよめる

35 みもごりにあしの若葉やもえぬらん 玉江の沼をあさる春駒

   【水の中に隠れて蘆の若葉が萌えでたのであろうか、玉江の沼を

    春駒があさっているよ】

 

       『新古今和歌集』 巻第一 春歌上

     崇徳院に百首歌たてまつりける時

34 あさ霞 深くみゆるや けぶり立つ 室の八島の わたりなるらむ

   【朝霞が深く見えるのは、水煙が立つ室の八島あたりなのであろうか】

 

ところで、当時の歌壇のリーダーとして歌合の判者を務めた藤原俊成と藤原清輔の依怙贔屓について、清輔の義弟の歌人顕昭の見解を記した鴨長明の『無名抄 61 俊成・清輔の歌の判、偏頗あること』を採り上げたい。

 

顕昭が申しますには、

 

〔この頃の和歌の判者としては、俊成卿と清輔朝臣が双璧でしよう。しかしながら、ふたりとも、依怙贔屓をする判者であり、また、そのやり方もそれぞれ違っています。

 

俊成卿は、自分自身も間違うことがあるとわかっている様子で、大事なポイントを大して論議をする事もなく『まあ、世間の習慣だから、こんなものでしよう』などと言った調子で意見を述べられる。

 

清輔朝臣は、表面は非常に清廉に見えて依怙贔屓などということを露ほども顔に表さずに、時に人が首をかしげたりすると、顔色を変えて論争して、自分の正しさを言い張ったりすると、居合わせた人々はみな、その事を知っているので、誰も異を唱えたりすることもなかった〕

 

流石に歌学書や注釈書を多く著わした理論派の顕昭ですが、いくら腹違いの弟と言っても、兄に対する批判は強烈過ぎるように思える。

ところで顕昭は六条藤家を引き継いだ兄と異なり、少年時より叡山で修行した後に後白河天皇第二皇子・守覚法親王が門跡の仁和寺に入寺して法橋の地位に昇っている。

 

ここに俊恵の腹違いの弟で、叡山で阿闍梨に上り詰めた祐盛法師と共通する兄に対する屈折した感情をみるのは深読みであろうか。

 

参考文献:『無名抄 鴨長明 現代語訳付き』 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫

     

新古今の景色(43)院政期(18)歌林苑(8)藤原清輔(1)

 

元来、和歌に全く関心のない私であったが、動乱の最中に今様に狂い、失われた巻を含めれば本編10巻、口伝集10巻の長大な『梁塵秘抄』を編纂した後白河法皇への我ながら異常な関心を引き金に、院政期の社会・文化の探索を続けているうちに、祖父の気質を継いだ後鳥羽院の『新古今和歌集』編纂を軸とした和歌へのこれも並外れた打ち込みの真意と動機も探りたくなってきた。

私のとっての新古今探索は、和歌そのものへの興味ではなく、そこに集う歌人一人一人の人間性への興味が第一で、その中でも外せないのが俊恵の主唱する歌林苑とその会衆であった。

 

ところが、俊恵に関する資料が少ない上に会衆の情報となると、一体誰が会衆なのかもはっきりしない。そこで(『鴨長明』三木紀人著 講談社学術文庫)で引用されている簗瀬一雄著『俊恵および長明の研究』で歌林苑に列席したとされる36名の中から『千載和歌集』あるいは『新古今和歌集』に入集した歌人を中心に、それぞれの家集巻末の歌人略歴を基に、会衆一人一人に名前と目と鼻をつけてみることにしたした。

 

そこで、トップバッターは、六条藤家三代目の藤原清輔である。ある時期は栄えある九条兼実の歌の師として歌壇のリーダーとして存在感を発揮した清輔が、六条源家3代目俊恵が主唱する歌林苑の会衆であったことは何とも興味をかき立てられる。

 

さて、『後鳥羽院御口伝』で、後鳥羽院は近き世の歌の上手として、

大納言経信、源俊頼、釈阿(藤原俊成)、西行の次に清輔を挙げ、

〔させることなけれども、さすがに古めかしき事、時々見ゆ〕とコメントして、新古今和歌集 賀 から次の歌を例示して古めかしさを強調し、

年経たる宇治の橋守言問はん 幾世になりぬ水の水上

その後の筆は俊恵法師に移っている。

 

つまり、新古今の時代には六条藤家の清輔の歌風は古めかしいということで、歌壇のリーダーは藤原俊成・定家父子の御子左家に移っていただけでなく、俊恵の六条源家にも大きく水を開けられていた。

 

この清輔の歌風の古さについて、鴨長明は『無名抄 57 清輔弘才のこと』で

次のようなエピソードを記している。

 

〔勝命が申すことには、清輔朝臣の歌の方面での博識ぶりには誰も肩を並べる者はいません。まさか、まだ誰も見知ってはいないだろうと思われることがらをわざわざ探し出して質問すると、みな、既にあの人が問題として採り上げていた事でした。晴の歌を詠もうとするときは『大事なことは何と言っても古集を見て思い浮かべるものです』と言って、万葉集を繰り返し見ておられました〕

 

参考文献:『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

    『無名抄 鴨長明 現代語訳付き』 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫