新古今の景色(43)院政期(18)歌林苑(8)藤原清輔(1)

 

元来、和歌に全く関心のない私であったが、動乱の最中に今様に狂い、失われた巻を含めれば本編10巻、口伝集10巻の長大な『梁塵秘抄』を編纂した後白河法皇への我ながら異常な関心を引き金に、院政期の社会・文化の探索を続けているうちに、祖父の気質を継いだ後鳥羽院の『新古今和歌集』編纂を軸とした和歌へのこれも並外れた打ち込みの真意と動機も探りたくなってきた。

私のとっての新古今探索は、和歌そのものへの興味ではなく、そこに集う歌人一人一人の人間性への興味が第一で、その中でも外せないのが俊恵の主唱する歌林苑とその会衆であった。

 

ところが、俊恵に関する資料が少ない上に会衆の情報となると、一体誰が会衆なのかもはっきりしない。そこで(『鴨長明』三木紀人著 講談社学術文庫)で引用されている簗瀬一雄著『俊恵および長明の研究』で歌林苑に列席したとされる36名の中から『千載和歌集』あるいは『新古今和歌集』に入集した歌人を中心に、それぞれの家集巻末の歌人略歴を基に、会衆一人一人に名前と目と鼻をつけてみることにしたした。

 

そこで、トップバッターは、六条藤家三代目の藤原清輔である。ある時期は栄えある九条兼実の歌の師として歌壇のリーダーとして存在感を発揮した清輔が、六条源家3代目俊恵が主唱する歌林苑の会衆であったことは何とも興味をかき立てられる。

 

さて、『後鳥羽院御口伝』で、後鳥羽院は近き世の歌の上手として、

大納言経信、源俊頼、釈阿(藤原俊成)、西行の次に清輔を挙げ、

〔させることなけれども、さすがに古めかしき事、時々見ゆ〕とコメントして、新古今和歌集 賀 から次の歌を例示して古めかしさを強調し、

年経たる宇治の橋守言問はん 幾世になりぬ水の水上

その後の筆は俊恵法師に移っている。

 

つまり、新古今の時代には六条藤家の清輔の歌風は古めかしいということで、歌壇のリーダーは藤原俊成・定家父子の御子左家に移っていただけでなく、俊恵の六条源家にも大きく水を開けられていた。

 

この清輔の歌風の古さについて、鴨長明は『無名抄 57 清輔弘才のこと』で

次のようなエピソードを記している。

 

〔勝命が申すことには、清輔朝臣の歌の方面での博識ぶりには誰も肩を並べる者はいません。まさか、まだ誰も見知ってはいないだろうと思われることがらをわざわざ探し出して質問すると、みな、既にあの人が問題として採り上げていた事でした。晴の歌を詠もうとするときは『大事なことは何と言っても古集を見て思い浮かべるものです』と言って、万葉集を繰り返し見ておられました〕

 

参考文献:『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

    『無名抄 鴨長明 現代語訳付き』 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫