鴨長明の時代の「女房」とは宮中や院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた高位の女官を指し、現在のキャリアウーマンを意味した。彼女たちは内裏や院御所に出仕して天皇・中宮・上皇・女院の傍近くに仕え、時に高位貴族たちと丁々発止のやり取りを交わしながら、同僚女房とは切磋琢磨して競い合う日々を生きたのである。
当時の最高権力者の後鳥羽院が、和歌の復興を高く掲げ、特に女流歌人の輩出を推進した事もあって、鴨長明は「無名抄」に歌壇で評価の高かった幾人かの女房歌人についてに記しているが、ここでは歌林苑の主唱者・俊恵法師の言葉を引用した大輔(殷富門院大輔)と小侍従について述べてみたい。
65 大輔・小侍従一双のこと
「近年の女流歌人の上手としては大輔と小侍従が歌壇で取りざたされています。大輔の方は歌に対する理論や知識の習得などに特別に力を入れ、飽くことなく何時でも何処でも粘り強く歌を詠む姿勢が優れています。
対する小侍従は、聴く人がはっと目を見張るような華やかな状況を読むことに優れており、贈答歌においては贈られてきた元の歌からまさにこの事こそが肝心だと思われるところをおさえて返歌を詠む心映えは誰も敵うものがありません」
と、俊恵法師は私に申しました。
因みに殷富門院大輔と小侍従は母方の従姉妹にあたる。
殷富門院大輔((いんぷもんいんのたいふ)は生没年不詳であるが、大治5年(1130)頃に生まれ、正治2年(1200)頃に70才で没したとされる。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)に出仕し、建久3年(1192)の女院落飾に従い出家。女房三十六歌仙の一人。家集『殷富門院大輔集』、『千載和歌集』初出で5首入集、『新古今和歌集』10首入集。
次に入集歌から『千載和歌集』から1首、『新古今和歌集』から3首を掲げてみた。
『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二
741 思ふこと忍ぶにいとど添ふものは 数ならぬ身の歎きなりけり
【思い悩むことを人目につかぬようにこらえているのに いよいよ加わるの
は物の数でもないわが身の歎きであるよ】
『新古今和歌集』 巻第一 春歌上
百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
73 春風の 霞吹きとく 絶えまより みだれてなびく 青柳の糸
【一面にたなびいている霞を春風が吹いて解(ほど)く、その絶え間から、糸の
ように乱れて靡く青柳よ】
『新古今和歌集』 巻第八 哀傷歌
久我(こがの)内大臣(源雅道)春の頃うせて侍りける年の秋、土御門(つ
ちみかどの)内大臣(源通親)、中将に侍りける時に、つかはしける
790 秋深き、寝覚めにいかが、思ひ出づる はかなく見えし 春の世の夢
【現代語訳:秋も深まったこのごろの寝覚めに、あなたはどのようにお思い出
しのことでございましよう。お父様が春の世に見る夢のようにはかなくお亡
くなりになったというお悲しみを】
『新古今和歌集』 巻第十三 恋歌二
題しらず
1228 何かいとふ よもながらへじ さのみやは、憂きにたへたる 命なるべき
【現代語訳:どうしてそうお嫌いになるのですか、とても生き永らえること
はできないわたしですのに。命はそれほどつらさに堪えていられるもので
しようか】
参考文献:『無名抄 鴨長明』久保田淳 訳注 角川文庫
(※)当ブログで参考文献の活用などでいつもお世話になっています東京大学名誉教
授で国文学者の久保田淳氏の文化勲章受章を心からお喜び致します。