赤染衛門が出仕した左大臣源雅信が長女倫子の夫として不承不承認めた藤原道長は、長兄の中関白道隆の死、直後に関白を引き継いだ次兄道兼の急逝、および日頃から道長に目をかけていた姉で一条天皇生母東三条院詮子の支援を受けて急速に権力の頂点に上り詰めて行く。
ここでは、望月の栄華を目指す野心家の藤原道長とその一族を支えた赤染衛門・大江匡衡夫婦の歩みを二回に分けて跡付けてみたい。
永年2年(988) 藤原道長と倫子の間に長女彰子誕生
永祚元年(989) 大江匡衡が文章博士に補される(38才)、赤染衛門33才
正暦元年(990) 1月藤原道長の長兄道隆の長女定子一条天皇に入内
正暦4年(993) 5月藤原道隆摂政となり中関白と称す
長徳元年(995) 4月10日 中関白藤原道隆没、直後に道長の次兄道兼が関白を賜るも5月に急逝、6月に道長が右大臣を賜り、妻倫子は鷹司殿と称される
長徳2年(996) この頃から赤染衛門(40歳)は鷹司殿倫子に出仕
初めて殿上を許された母の喜びを次のように詠む
大江挙周はじめて殿上を許されて草ふかき庭におりて拝しけるをみ侍りて
草わけて立ち居る袖のうれしさに 絶えず涙の露ぞこぼるる(新古今18 雑下)
また、その挙周が除目に漏れた時の落胆の気持ちを次のように詠む
大江挙周司めしにもれて嘆き侍りける頃梅の花を見て
思ふことはるとも身には思はぬに 時知り顔に咲ける花かな
長保3年(1001)大江匡衡が尾張守に補されて夫婦で任地に下向する道すがら、夫婦で次の歌を詠む
大江匡衡:みやこいでて 今日ここぬかになりにけり
赤染衛門:とをかの国にいたりしかな
寛弘元年(1004)大江匡衡任地を終えて上京し、赤染衛門は再び倫子に出仕するが、この頃から中宮彰子の若い女房集団の世話役を担う
寛弘3年(1006)息子挙周蔵人に補される。
参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人』久松潜一・實方清 編