私家集大成所収の榊原家本の『赤染衛門集(1)』には、藤原道長と赤染衛門の次のような贈答歌が収められている。
花さかりに雨いみしくふりしころ、
御前の花いかならんと思ひて殿にまいらせし
420 ちりやすきあめにやうつる桜はなみるまの色をたれにとはまし
とのの御前御返し
421 またちらて雨ににほへる花かさを人にはといてきても見よかし
たち帰まいらせし
422 さしはへて君にもとはぬ花かさをいかてか雨のふりてきつらむ
またおほせられたる
423 いはねともみゝなれにたる春雨にはなのことはゝふりにこそふれ
この贈答歌を見ると主従にしてはかなり親密に思われるが、私家集『御堂関白集』によよると、道長の一家は家族のみならず女房たちを含めた主従間においても、日常のコミュニケーションに和歌が用いられた事が記されている。因みに『新古今和歌集』に道長の歌は5首採られている。
ところで藤原道長と赤染衛門の繋がりは、赤染衛門が出仕していた左大臣源雅信の長女倫子が道長と永延元年(987)に結婚した事に始まる。その当時倫子は24歳、道長は22歳であった。
倫子を将来の天皇の后として育てていた源雅信は、青2才で嘴の黄色い道長の求婚を快く思っていなかったが、前年の寛和2年に数え年7才で践祚した一条天皇は幼くて倫子に釣り合わず、道長の将来性を見抜いた妻・藤原穆子の進言を渋々受け入れて二人の結婚を認めたとされる。
この結婚により道長の正室となった倫子は鷹司殿と呼ばれ、赤染衛門は倫子に出仕することとなった。
赤染衛門の夫選びといい(https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2019/11/19/091803)、
倫子の夫選びといい、通い婚時代の平安貴族の娘の夫の選択眼はどうやら母親の方が優れていたようだ。
他方で、結婚以後の赤染衛門と大江匡衡夫婦の出来事としては、貞元2年(977)に長男挙周(たかちか)が誕生し、天元5年(982)には大江匡衡が検非違使の宣旨を受けた事が挙げられる。