新古今の景色(24)女房文学(17)赤染衛門(9)栄華を支えた共稼ぎ(2)

ここで、藤原道長が詠じたとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思えば」の望月の栄華について述べておきたい。

摂関期に道長が目指したのは関白ではなく摂政の地位であった。関白の機能は天皇へ助言する事にあるが、摂政は幼い天皇や病気の天皇に代わって政務を執り行う機能を有し従来は皇族が担っていたが、清和天皇の母方の祖父・藤原良房が9歳の清和天皇に代わって政務を執り行い、貞観元年(866)に初めて皇族以外で摂政に任命され、その後も良房は成長した孫の天皇に代わって死ぬまで国政を執り行なった。

この事は、天皇家に生まれなくても摂政になれば天皇の代理として天皇と同じ権力を行使できる道が開けた事を意味し、その後の高級貴族はこぞって摂政を目指すことになった。

が、そのためには

①娘を得て、②天皇に入内させ、③娘が天皇に愛されて皇子を出産する、

というプロセスを踏む必要があるが、天皇の年齢に見合った娘を得られるか、また娘が天皇に寵愛されても皇子を出産するか、などの偶然が大きく影響することは、道長の妻倫子の父で、宇多天皇の曾孫に当たる左大臣源雅信が、娘を天皇の后にと育てたものの一条天皇よりかなり年上で断念せざるを得なかった事にも表れている。 

史実を見ても、藤原良房の後、道長の父・兼家が娘の詮子を円融天皇に入内させて一条天皇の外祖父摂政を実現するまで120年もの時間を経ている。

それを考えると、相次ぐ二人の兄の急死という強運と、権力への執着に基づく策略を行使して、三条天皇の后に次女の妍子立后させ、崩御した一条天皇の遺志を無視して三条天皇を譲位に追い込み、一条天皇と自分の娘彰子の間に生まれた外孫の後一条天皇を即位させるという、天皇の指名権を行使した上で、即位した後一条天皇中宮に三女威子を立后させて、娘三人を天皇の后(一家三后)に据えた道長が築いた栄華はまさに望月といえる。

 

さて、藤原道長という希代の権力者に仕えた赤染衛門、夫・大江匡衡と息子の拳周は、主が築く栄華への過程で以下に見るようにそれぞれの役割を果たしている。

寛弘5年(1008)9月11日に中宮彰子が皇子出産し、翌日の皇子の夕べの沐浴時には、赤染衛門の息子の挙周が漢籍を読み聞かせ、10月4日には、一条天皇の命により大江匡衡が皇子に「敦成(あつひら)」と名付けている(後の後一条天皇)。

この功績に拠ったのか、その後に息子挙周が丹波守に補任されている。

 

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紫式部日記絵巻―中宮出産産養いの場面』「美麗院政期の絵画展」カタログより

 また、11月頃には、誕生後初めての敦成親王の内裏還啓にちなんで御冊子作りの事務方を赤染衛門が務めている。当時の道長中宮彰子の後宮を文化サロンと位置づけて物語作りに力を入れており、その中心を中宮彰子と前々年に出仕を始めた紫式部が担い、赤染衛門は紙や筆の調達などの裏方を担った。 

さらに翌年の寛弘6年(1009)11月25日に中宮彰子は二番目の皇子を出産し、12月14日には再び大江匡衡が新皇子に「敦良(あつなが)」と名付ける役を果たしている(後の後朱雀天皇)。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

     『ビギナーズ・クラシックス 御堂関白』繁田信一編 角川ソフィア文庫  

     『ビギナーズ・クラシックス 紫式部日記』山本幸子編 角川ソフィア文庫