新古今の景色(123)院政期(98)後鳥羽歌壇と遁世女房歌人

「この頃、世に女の歌詠み少なしなど、常に歎かせ給ふ。昔より歌よみと聞こゆる女房、少々侍り。殷富門院大輔も一年(ひととせ)失せにき。

又、讃岐、三河の内侍、丹後、少将(小侍従の誤写か)など申す人々も、今は皆齡(よはひ)たけて、ひとへに後の世の営みして、ここかしこの庵に住み慣れて、歌の事も廃れ果てたれば、時々歌召されなどするも、念仏の妨げなりとぞ、内々は歎きあへると聞き侍る。比の人々のほかは、又さらに聞こえず。

心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なれば、さる人も侍らむ。

しかれども、何のついでにか言ひ出だし初めむ。高き(身分)女房は、ひたすらに慎ましき事にして、言ひださず。

又、身に恥じて慎む人も多かれば、何のたよりにか聞こゆべき。

されば女の歌詠みは、この古人(ふるびと)たち亡からむ後は、更に絶えなむずる事を、口惜しき事にたびたび仰せらる」

 

上記は鎌倉初期の歌人で、後鳥羽院の和歌所の記録係を務めた源家長が、後鳥羽院が女房歌人の少なさと共に、齢を重ねた女房歌人達が庵に籠もって「歌を詠むなどは念仏の妨げ」などと称して積極的に歌合などに出詠しないことを歎いた気持ちを代弁して「源家長日記」に記したものである。

 

とは言え「齢を重ねて庵に籠もって後の世の営みして」と名指しされた女房歌人のうち三河の内侍を除く二条院讃岐(※1)、小侍従(※2)、丹後(※3)は、後鳥羽院の御召しに応えて『正治初度百首(※4)』及び『千五百番歌合(※5)』に、それぞれ百首歌を詠進している。

 

ここでは、『正治初度百首』における3人の出詠歌を全出詠歌の通し番号にしたがって、1首目と2首目と最終首目を採り上げてみたい。

 

二条院讃岐:

 

01904: いはそそく たるみのおとに しるきかな こほりとけゆく

      はるのはつかせ

01905: うくひすの たにのふるすを となりにて ともにまちつる 

      はるはきにけり

02003: しもおけと いろもかはらぬ さかきはの さしてもしるき 

      きみかみよかな

 

太皇太后宮小侍従:

 

02004: くるはるの すかたはそれと みえねとも なのみやこゆる 

      あふさかのせき

02005: みわのやま たつねしすきは としふりて はるのしるしの 

      まつたててけり

02102: きみかよは にまのさとひと かすふれて かすよりほかに 

      かすそひにけり

 

宜秋門院丹後:

 

02103: としはくれ はるはあけゆく かねのおとの しもはかすみに 

      きゆるなりけり

02104: ひくひとの よはひもしるし こまつはら ねのひのちよを 

      のへにいてつつ   

02202: きみかよに ひきくらふれは すみよしの まつもおよはぬ 

      ここちこそすれ

 

  • 引用web:和歌データーベース

https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i031.html#i031-001

 

また、『千五百番歌合』は、建仁元年(1201)に後鳥羽院の命を受けた30人の歌人が百首ずつ詠進した「後鳥羽院第三度百首」の三千首が千五百番の歌合に結番されて建仁二年(1202)9月に選定された10人の判者に二巻(150番)ずつ送られたが、披講や評定は行われず、判者の裁量で加判されて建仁三年(1203)春頃に成立した。出詠歌人は左方15名 右方15名で、小侍従と二条院讃岐は左方、宜秋門院丹後は右方で出詠している。

 

治天の君後鳥羽院の命に応じて、錚々たる歌人の一員として二度の歌合それぞれ百首ずつ詠進するのは並大抵の意欲とエネルギーではないか。20年前に出家して遁世していた小侍従はこの時八十歳余で、その後間もなく逝去したとされる。

 

(※1)二条院讃岐:源頼政の娘で仲綱の同母妹。生没年は未詳だが、永治元年(1141)頃に生まれ、若い頃に二条院に出仕し、二条院没後は九条兼実の娘で後鳥羽院中宮(宜秋門院)任子に仕え、後に出家して健保5年(1217)に76歳で没したとされる。因みに宜秋門院丹後は従姉妹にあたる。家集『二条院讃岐集』。

 

(※2)小侍従:生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘、母は歌人小大進。建仁元年(1201)に八十歳余で生存か。大納言藤原伊実に嫁し(正室ではない)、夫の死後二条帝に仕え、その崩御後は太宮(大皇太后多子)、高倉天皇に仕えた後に治承3年(1179)に59歳で突然出家。「待宵小侍従」と称される。家集『小侍従集』を著す。『千載和歌集』初出6首入集、『新古今和歌集』7首入集。

 

(※3)丹後:宜秋門院丹後とも。二条院讃岐の従姉妹。当初は九条兼実の女房であったが、その後兼実の娘宜秋門院任子の女房となり、建仁二年(1202)12月に出家したが、再び任子に仕え承元元年(1208)まで後鳥羽院歌壇の主要な歌合に出詠。

 

(※4)正治初度百首:『正治初度百首』は正治2年(1200)11月に披講され、後鳥羽院の御製の00001から番外作者の出詠歌02298まで収められており、ここから『新古今和歌集』に79首入集している。因みに百首歌とは定数歌で、一定の数を定めて和歌を詠む創作手法、その催し、作品を指す。

 

(※5)千五百番歌合:後鳥羽院が主催した歌合で仙洞百首歌合とも称される和歌史上最大規模の歌合で「新古今和歌集」撰集資料としても第1位である。

 

引用及び参考文献:『異端の皇女と女房家人~式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子著 角川選書

 

 

新古今の景色(122)院政期(97)小侍従の遁世(7)遁世の主従

 

       都うつりの比(ころ)後徳大寺左大臣、太皇大皇宮に参りて、

     女房の中にて夜もすがら月を見て物語などして、暁帰りける時、

     小侍従送り出でて侍りけるに、ともにありて申しける

 

                      藤原経伊

   ものかはと君が言ひけむ鳥の音の 今朝しもなどか悲しけるらん

 

上記は『新拾遺集(※1)』に採られた後徳大寺実定の側近・藤原経伊の歌で、

それに対する小侍従の返歌は『平家物語 巻第五 月見』によれば、

 

   またばこそ更けゆく鐘もつらからめ あかぬ別れの鳥の音ぞ憂き

 

と、記されている。

 

ここで、再び「宵待の小侍従」の名を世に知らしめることになった『平家物語 巻第五 月見』に立ち返ってみたい。

 

治承4年(1180)6月8日に新都の事始めがあり、8月10日棟上げ、10月7日に御遷幸と定められて、全てが福原新都に靡き、旧都は廃れる中、8月の10日余りの日に、徳大寺の左大将実定卿は、旧都の月を慕って平家方の了承を得て、妹の太皇大皇宮多子が棲む近衛河原の大宮に向かうが、かつての華やかな名残りはなく、草木が繁茂する荒れ果てた邸だけが残されていた。

 

実定が邸に案内された時、妹の太皇大皇宮多子は南殿の格子を上げさせて琵琶を弾いていたが、突然現れた兄を見て「これは夢かや、うつつかや、これへ、これへ」と請じ入れて、有明の月を眺めながら、多子は旧都の荒れ行く様を、実定は新都の住みよさ等を心ゆくまで語りあう。

 

さて、夜が明けて、後徳大寺実定が暇を告げる時「小侍従が余りにも名残惜しげに見えるので」と、伴に連れてきていた側近の藤原経伊に小侍従と唱和させたのが上記の贈答歌である。

 

この時の小侍従は60歳か、前年出家して八幡に遁世していたが、既に出家していたかつての主の多子に求められて再び仕え、わずかな女房達と共に荒廃した近衛河原の大宮に遁世していたのである。

 

(※)新拾遺集新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)。勅撰和歌集。二十一代集の一。20巻。南北朝時代の貞治2年(1363)、二条為明(ためあきら)が北朝後光厳天皇の勅を報じて撰したが完成に至らず没したので頓阿が後を引き継ぎ貞治3年(1364)成る。 

 

参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 中』 水原一 校注 新潮社

     『女歌の系譜』 馬場あき子著 朝日選書

 

新古今の景色(121)院政期(96)小侍従の遁世(6)落飾の二代の后

家集「小侍従集」によると、小侍従(※)が、治承3年(1178)3月に59歳で突然出家して八幡八幡宮に引き籠った時に、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)から何故出家をした事を知らせてくれなかったかと問われて

 

   とふ人も波に漂ふ海士小舟(あまこぶね) うみは今ぞ漕ぎ帰りぬる

 

と返歌して、程なくして多子が遁世していた近衛河原の太宮に出入りするようになった。

 

ここでは、出家後の小侍従が再び仕えることになった太皇大皇宮多子の波乱の人生に触れてみたい。

 

太皇大皇宮多子(1140~1202)は、閑院流・藤原公能を父に、藤原豪子(藤原俊忠の娘)を母に生まれ、同母兄に後徳大寺左大臣藤原実定を持つ。

美貌の多子は幼い頃より父の姉妹の夫の藤原頼長(1120~1156)の養女となり、娘のいない頼長は彼女を早くから后候補と考えて、9歳の彼女を久安4年(1148)に従三位に叙させて、さらに11歳の久安六年(1150)正月に近衛天皇(1139~1155)に入内させ、直後の3月には摂関家の力で皇后に立てている。

 

病弱の近衛天皇が久寿2(1155)に17歳で崩御すると、多子は近衛河原に隠居するが、保元3年(1158)には19歳の若さで太皇太后に立てられている。

 

そして後白河天皇退位後に皇子守仁親王が保元3年(1158)に二条天皇として即位して、先々帝の皇后だった多子の入内を強く望んだ事で、彼女の運命は大きく変転する。

 

天皇の皇后だった女性がもう一度入内するのは前代未聞のことであったが、「これで待ち望んだ天皇の外祖父になれる」と野心を抱いた多子の実父の公能は、渋る多子に入内を強く勧め、永暦元年(1160)二条天皇後宮に入内した事で、多子は「二代の后」として後世に語り継がれることになる。

 

ところが、父・公能の野望も儚く、永万二年(1165)7月、二条天皇は23歳の若さで崩御し、 再び寡婦になった多子は同年12月に26歳で落飾して近衛河原の大宮に再び遁世し、建仁元年(1201)12月に62歳で世を去る。

 

 

(※)小侍従:生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘、母は歌人小大進。建仁元年(1201)に80余歳で生存か。夫の権中納言正三位・藤原伊実(近衛天皇中宮呈子の兄・正室従三位刑部卿範兼の娘)死後二条帝に仕え、その崩御後は太宮(大皇太后多子)、高倉天皇に仕えた後に治承3年(1179)に59歳で突然出家。「待宵小侍従」と称される。家集『小侍従集』を著す。『千載和歌集』初出6首入集、『新古今和歌集』7首入集。

 

 

新古今の景色(120)院政期(95)小侍従の遁世(5)西行と源頼政

ある日、カフェでのんびりと『西行全歌集』のページを捲っていたところ、「山家集 中」に収められた西行と小侍従の次のような贈答歌が目に入ってきた。

 

     院(後白川院)の小侍従、例ならぬ事大事に臥し沈みて

     年月経にけりと聞こえて、訪(とぶら)ひにまかりたりけるに、

     この程少しよろしきよし申(まう)して、人にも聞かせぬ 

     和琴(わごん)の手弾きならしけるを聞きて

 

   922 琴の音に涙を添へて流すかな 絶えなましかばと思ふあはれに

 

                       返し

   933 頼むべきこともなき身を今日(けふ)までも

                    何にかかれる玉の緒ならむ

  

小侍従は、従姉妹の殷富門院大輔・歌林苑の会衆・源頼政平経盛・後徳大寺実定など

多くの歌人との交流で知られているが、西行とも親しくしていたのだ

 

しかも、小侍従が、後白河院に仕えていた頃となると、かなり若いときのやりとりであろう。この歌から小侍従が若い頃大病に臥していたこと、そして和琴を弾ける女性であったことが窺える。

 

ところで、小侍従の家集『小侍従集』には、源頼政(※2)との贈答歌が最も多く収められ、その中でも恋愛を模した贈答歌には味わい深いものが多いとされる。ここでは、次の歌から2人のやりとりを味わってみたい。

 

      源三位頼政もの申すころ、二、三日音づれぬ風さえおこりて

      心ぼそければ

 

                       小侍従

    とへかしな浮き世の仲にありありて 心とけつる恋の病を

 

                       頼政

    いかば生き死なば後(おく)れじ君ゆえに

                   我もつきにし同じ病を

 

上の贈答歌は、小侍従、頼政の双方に忙しくていろいろ支障があってなかなか顔を合わせる事ができなかった状況を詠ったもので、時に小侍従は40代、頼政は60歳前後とされ、恋というよりは恋を装った面白づくしの贈答歌とされている。

 

 

                      頼政

    滞る春より先の山水を 絶えはてぬとや人は知るらむ

   【春に先立ちまず凍り滞ってしまう山川の水を 

     絶えはててしまったなどと思われるのでしようね】

 

                     小侍従

     滞るほどかとききし山河の 絶えはてけるは春ぞしらるる

    【いまは凍ってしまっている時期で、とか、言っておられた山川も、

     本当はやはり絶え果てていたのだとは、すっかり春になった今こそ

     思い知られますよ】

 

上の贈答歌は、頼政が小侍従と逢う都合がつかず、年の瀬も迫ったつもごりに、その旨を歌に託して小侍従に贈ったところ、小侍従はわざと返歌を正月15日まで引き延ばして贈っている。

 

そんな歌のやりとりを交わしている時に、突然小侍従が59歳の治承3年(1178)3月に出家して八幡に引き籠った時には、かつての主の太皇大皇宮多子(まさるこ)、その兄・後徳大寺実定を初め多方面から驚きの問い合わせがあったが、とりわけ頼政の「自分こそ先立つはずの出家の道に、あなたを先立ててしまった」との歌への次の返歌は親しみと共に真情を吐露している。

 

    おくれじと契りしことを待つほどに やすらふ道も誰ゆゑにそは

   【しるべをして下さる日を待っていましたのに あなたのご出家がおくれて

    いるのはもしやどなたかのためなのでは】

 

その頼政は翌月の4月に待望の従三位に昇り、さらに小侍従に2ヶ月遅れて5月に出家を遂げたものの、翌年の治承4年5月、頼政が77歳の時に以仁王を奉じて平家追討を計るも戦いに敗れて宇治平等院自死している。しかし、この戦いが源氏の挙兵を促し平家滅亡への狼煙となった。

 

(※1)山家集(さんかしゅう):西行の歌集。3巻。編者・成立年未詳。歌風は平

    明で用語も自由。仏教的世界観を基礎に歌境を広めかつ深め、自然詠と述懐に

    秀歌が多い。約千六百首。   

 

(※2)源頼政(みなもとのよりまさ):(1104~1180)平安末期の武将。

    摂津源氏源仲政の長男。白河法皇に抜擢されて兵庫頭。保元・平治の乱に功を

    たてた。剃髪して世に源三位入道と称す。後に後白河天皇の第三皇子・以仁王

    (もちひとおう)を奉じて平氏追討を図り、戦に敗れて宇治平等院自死

    宮中で鵺(ぬえ)を退治した武勇伝は有名。家集『源三位頼政集』  

 

参考文献:『西行全歌集』 久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫

     『女歌の系譜』馬場あき子著 

新古今の景色(119)院政期(94)小侍従の遁世(4)恋模様(2)内大臣雅通

さらにさかのぼれば、小侍従が26歳か27歳の頃で、久我雅通(※1)も中将か参議の若かった久安・仁平の時代(1145~53)、二人が人目を忍ぶ熱烈な恋人だった事を偲ばせる恋の唱和4首が『小侍従集』に残されている。

 

                      雅通

   儚さもあふ名なりけり夏の日も 見るほどありと覚えやはせず

  

                      小侍従

   思ひわび絶ゆるる命もあるものを あふ名のみやは儚かるべき

 

 ある夏の日に小侍従が2、3日逗留した雅通の邸から帰ってくると、雅通のもと

から余りにも短すぎた2人で過ごした日々の思いを伝えてきたが、それに対して小侍

従は「逢う毎に立つ浮き名のみが儚いのではなく、あなたを思うとほとんど死ぬ程に

つらく、もろく儚い命とおもえる」と、返している。

 

さらに『小侍従集』には以下の2首も収められている。

 

                      小侍従

    哀れいつ よかはの篝(かがり)かげ消えて ありし思ひの

    果てときかれむ 

 

 この歌は二人の関係が疎遠になったことを恨んで雅通に贈った歌、

  

    思へただ この言の葉を返しては 何にかくべき露の命ぞ

 

 さらに、この歌は、二人の仲について悪い噂が立ったことを怨んだ雅通から、

 これまで雅通が小侍従に贈った秘めやかな手紙を全て返してほしいと頼んできた

 ことに対する返し歌。

 

 上記の歌からは、鴨長明が『無名抄 65 大輔・小侍従一双のこと』で、小侍従について〔小侍従ははなやかに目驚くところを詠み据うる(※2)ことのすぐれたりしなり。中にも歌の返し(※3)することは、誰にもすぐれたりとぞ。〕と評した「返し歌の名手」の素養が既に若い頃から発揮されていたことが見て取れる。

 

(※1)久我雅通:源雅通。元水元年(1118)~承安5年(1175)。享年58歳。村上源氏。父は源顕通。叔父雅定の養子となる。内大臣正二位。久我内大臣と呼ばれる。『千載集』初出、『新古今和歌集』1首入集。

 

(※2)はなやかに目驚くところを詠み据うる:人をはっと驚かせるようなところを

しっかりと読む。

 

(※3)歌の返し:返歌

 

参考文献:『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書

    :『無名抄』鴨長明 久保田 淳:訳注 角川文庫    

新古今の景色(118)院政期(93)小侍従の遁世(3)恋模様(1)後白河院

                       小侍従

    泊まりゐて 返らぬけふの心をぞ 羨むものと我はなりぬる 

   【女院のもとにお泊まりになったまま、仙洞御所にはお帰りにならない

    院のお心を、ただ羨ましくのみみております】

 

                       後白河院

    世の常の栖(すみか)を洞(ほら)の内にして 返らむ人と君をなさばや 

   【仙洞に帰っていつもの生活に早く戻り、そこからかえさないように あなたを 

    してみたい】

 

上記の歌は小侍従の私家集「小侍従集」に載せられたもので、時期は高倉天皇在位の承安4年(1174)頃、高倉天皇の内裏に出仕していた小侍従が、後白河院最愛の后にして高倉天皇の母・建春門院滋子が主催した最勝光院での理趣三昧の聴聞に呼ばれたおりに、たまたま女院と同居中の後白河院に会って懐かしく思い、内裏に戻ってから上記の歌を建春門院邸に贈ったと記されている。

 

また、『古今著聞集(※)』にはこの歌のいきさつを裏付けるように、後白河院との仲を告白する次のような小侍従の懺悔物語が記されている。

 

 舞台は、仙洞御所ののどかな雑談の場で、テーマ「忘れがたい恋の思い出」を語るように後白河院から促された側近が次々に告白してついに小侍従の番になった。

 当時から恋多き女として知られていた小侍従の告白に期待した側近達が「あなたこそすばらしい告白を聴かせて下さる出しよう」というと、彼女は「おほ(多)く、候よ」笑って次のように告白したとされる。

 

「むかし、ある所から迎えの車をいただいたことがあったが、自分が全てを捧げたいほど夢中になっていたお方であったので、心乱れつつ急いでその車に乗って出かけた。

到着した場所に車を寄せると、薫き物の香りが御簾の中からなつかしく漂い、恋しいお方が御簾を上げておいでになり、私を着物ごとひしと抱きしめて、『何と遅いことよ』とおっしゃった。

 

 忘れがたい一夜があけて、わたしはそのお方と下着を取り替えて着たまま帰ってきたので、家に着いてその下着の香りを嗅ぎながら物思いに沈んでいると、無情のお使いが来て衣を取り戻していってしまった」

 

と、小侍従が告白すると、その告白に感動した後白河院をはじめ側近の人々が、相手の名前を明かせと責めてきたので、ようやく口を開いた小侍従の明かした名前が、天皇に在位した頃の後白河院その人であったので、人々はどよめきの声を上げ、当の後白河院はあたふたと奥に逃げ込んだと。

 

後白河天皇在位といえば、久寿2年(1155)から保元3年(1158)の頃で、小侍従が35歳か36歳のころと思われる。

 

写真は後白河院(右)と二条院(左)

 

 

(※)古今著聞集:ここんちょもんじゅう。鎌倉時代の説話集。20巻30編。

   橘成秊撰。建長6年(1254)成る。今昔物語集宇治拾遺物語・江談抄・

   十訓抄などの説話をも採り入れ、我が国の説話を題材別に分類収録。

 

参考文献 『女歌の系譜』 馬場あき子著 朝日選書、

新古今の景色(117)院政期(92)小侍従の遁世(2)恋歌

前回述べた『平家物語 巻第五 月見』が伝える「待宵の小侍従」の名が決定的になった頃の小侍従は二条院に出仕した40歳前後の出来事と考えられるが、それにしても、二条帝后太宮の御前(おまへ)の『待つ宵と帰る朝(あした)とは、いずれか あはれは まされるぞ』、との問いに、

 

       待つ宵の 更けゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

  【恋人を待ちわびる宵の、空しく更けゆく鐘の音を聞くときの切なさに較べれば、

   名残惜しい朝の別れに聞く鳥の声など物の数ではありません】

 

と、情感深く即答で詠い返した事は、小侍従自身が相当な恋の体験を経ていなければ出来る事ではない。そこで、小侍従の勅撰集初出の『千載和歌集』入集歌から彼女の恋を偲んでみたい。

 

            『千載和歌集』 巻第八 羈旅歌 

528 草枕 おなじ旅寝の袖に又 よはのしぐれも宿は借りけり

    【私は宿を借りて旅寝をしているが、同じ私の旅寝の袖に夜半の時雨も

     また宿を借りることだなあ、旅の袖は涙にぬれているよ】

 

            『千載和歌集』 巻第十三 恋歌三

        夢ノ中ニ契ル恋といへる心をよめる 太皇大皇宮小侍従

835 見し夢の 覚めぬやがてのうつつにて けふと頼めし暮れを待たばや

    【見た夢がこのまま覚めない現実となって、今日逢おうとあてにさせた

                  日暮れを待ちたいものだなあ】 

 

                          『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四

                      恋の歌とてよめる        太皇大皇宮小侍従

892 恋ひそめし 心の色の何なれば 思ひ返(かへ)すにかへらざるらん

    【恋しはじめた心のいろは、一体どういうわけで、思い返そうとしても

     元にもどらないのだろうか】

 

            『千載和歌集』 巻第十五 恋歌五

924 君が恋ふとうきぬる魂(たま)のさ夜ふけて いかなる褄にむすばれぬらん

    【あなたを恋い慕う心の闇を歎き歎きしながら、それがこの世だけと思える

     のならば良いが、未来永劫の闇に迷いそうです】

 

(※)小侍従:生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の娘、母は歌人小大進。建仁元年(1201)に80余歳で生存か。大納言藤原伊実に嫁し(正室ではない)、夫の死後二条帝に仕え、その崩御後は太宮(大皇太后多子)、高倉天皇に仕えた後に治承3年(1179)に59歳で突然出家。「待宵小侍従」と称される。家集『小侍従集』を著す。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』7首入集。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

               片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行