見せばやな雄島(おじま)の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず
【あなたに私の袖をお見せしたいわ。あの松島の雄島の漁師の袖さえも、濡れに
濡れたとしても色は変わらないというのに、私の袖は、血の涙で真っ赤に
染まってしまいました】
何とも情熱的なこの歌は藤原定家により『百人一首』90番に採られた殷富門院大輔の歌である。ところで殷富門院大輔と藤原定家の交流はどのようなものであったか、先ずは、定家の『明月記』の文治4年(1188)9月29日の野分(※1)の記述からたどってみたい。
[定家が殷富門院に参上して、女房大輔としばし歓談しているうちに、気がつくと周囲に人がいなく余りの静けさに退出しようとしたところに、定家の友人で歌人の藤原公衛(※2)がやってきて「寝ようとしても、強い風の音や、庭の木の葉の落ちる音がうるさくて眠れないので騎馬でやってきた」という声に、大喜びした女房達があちこちの部屋から集まって、狂言(戯れ言)・連歌・和歌などで一夜を明かした]
このような若い貴族と女房達との交遊は殷富門院(後白河院皇女亮子内親王)御所では日常の光景で、そんな中で、応保2年(1166)生まれの若い定家は、大治5年(1130)生まれの多作で「千首大輔」と呼ばれた年上の女房歌人から歌の面で大きな影響を受けたとされる。
次に歌の面での二人の繋がりを定家の家集『拾遺愚草』から探ってみたい。
殷富門院、皇后宮と申しし時、まゐりて侍りにしに、権亮(公衛)・大輔など
さぶらひて、夕花といふことをよみしに
つま木こりかへる山ぢのさくら花あたら匂をゆくてにやみる
次に定家が大輔と共に摂津の四天王寺に参った時に詠んだ歌から
文治之此、殷富門院大輔天王寺にて十首歌をよみ侍りしに、月前念仏
西を思ふ涙にそへてひくたまに光あらはす秋の夜の月
さらに、『拾遺愚草』には、文治3年(1187)に大輔から求められて定家が詠んだ百首歌が「皇后宮大輔百首」として収録されている。
建久4年(1193)2月に定家が母の美福門院加賀の喪に服していた折に大輔が弔問の歌を贈った事も付け加えておきたい。
(※1)野分(のわき):210日・220日頃に吹く暴風。台風。あるいは秋から初
冬にかけて吹く強い風。
(※2)藤原公衛(ふじわらのきんひら):保元3年(1158)生まれ建久4年(1193)36才にて没。公季流、右大臣公能の四男。極官は従三位左近中将。俊成・寂蓮・定家ら、御子左家歌人と親交があった。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』4首入集。家集『三位中将公衡卿集』。
参考文献:『ビギナーズ・クラシック日本の古典 百人一首(全)』
谷 知子編 角川文庫