新古今の景色(3)長命な歌道家(2)六条藤家

「六条藤家」は白河法皇の乳母子として権勢をふるった藤原顕季を祖とする歌道の家で、その顕季は宮廷歌壇の庇護者となり、人麻呂影供(※1)を創始してその継承を広めつつ「歌の家」を確立して顕輔・清輔・顕昭らを輩出した。 

顕季の息子で清輔の父でもある顕輔(享年66歳、左京太夫正三位)は崇徳上皇院宣により『詞華和歌集』を撰進し、家集『顕輔集』を著した。 

「六条藤家」の70歳以上の長命を保った歌人とその『新古今和歌集』入集数は次の通り。

 

 藤原清輔(顕輔の息子)   享年74歳 大皇太后宮大進従4位下   12首 

 顕昭(顕輔の猶子)                 79歳  法橋                 2 

 藤原季経(清輔の弟)      91歳  宮内卿正三位        1

 

しばしば御子左家の藤原俊成と相対した藤原清輔は、『続詞華和歌集』を撰集するも二条天皇崩御に伴い勅撰和歌集に至らなかった。その後は九条兼実に引き立てられ九条家で催される歌会・歌合の指導者となったが、治承元年(1177)に没した後は藤原俊成九条家歌壇の指導者の位置を得て、六条藤家は斜陽化していった。歌論集『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』を著す。『千載和歌集』以下の勅撰集に94首入集。

 

清輔の義弟の顕昭は博覧宏識の歌人・歌学者で六条家歌学の中心をなした。 [六百番歌合]における藤原俊成の判詞を批判して争った『六白番陳状(顕昭陳状)』は有名。『古今集註』『袖中抄』など考証注釈の著作多数。『千載和歌集』以下の勅撰集に42首入集。

 

後鳥羽院歌壇の幕開けとなる『正治初度百首』に内大臣源通親の肩入れで何とか名を連ねた清輔の弟・季経だが、後鳥羽院への直訴にもかかわらず『新古今和歌集』選者はおろか和歌所寄人にも任命されず、家と自らの行く末を悲観して出家をしたが91歳まで長命を保った。家集『季経入道集』を著す。

 

(※1)人麻呂影供(ひとまろえいぐ):1118年藤原顕季によって創始された、歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し肖像を掲げて和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。鎌倉時代以降は歌合と組み合わせた「影供歌合」として歌壇の行事として定着し近世に至るまで続けられた。

f:id:K-sako:20181115122614j:plain

『柿本人麿像』伝土佐広周筆 根津美術館蔵 「芸術新潮2018年9月号」より

          

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注