新古今の景色(4)長命な歌道家(3)御子左家(1)後鳥羽院歌壇をリード

 御子左家は藤原俊成とその息子定家の確立した和歌の師範の家筋。俊成は古今集の正調を継ぎながら幽玄美を追求し、定家は父の歌学をさらに発展させ、慈円、藤原良経とともに新古今風を確立して清輔・顕昭などの六条藤家を圧倒した。

 

因みに御子左とは、藤原道長の第六子・長家が御子左第(醍醐天皇の皇子の兼明親王の旧邸)に住んだため、その家系は代々この名で呼ばれた。御子左家から『新古今和歌集』に入集した70歳以上の長命な歌人とその入集数は以下の通り。

 

藤原 俊成         91歳  皇太后太夫従三位    72 

 〃 定家(俊成の息子)  80歳  権中納言正二位      46 

美福門院加賀(定家の母)  70歳  美福門院女房        1 

俊成卿女(俊成の孫)    82歳  後鳥羽院女房       29

               

藤原俊成は歌学の師藤原基俊(※1)と尊敬する歌人源俊頼の両者の粋をとり入れた清新温雅な、幽玄体の歌風を樹立し、数多の歌合で判者を務め当時の歌壇で指導的な役割を果たして、後白河院の命により『千載和歌集』を撰して歌道家「御子左家」を築く。『新古今和歌集』以下の勅撰集に400余首入集。家集『長秋詠藻』を著す。また、式子内親王のために歌論書『古来風躰抄』を著した。

 

藤原定家は『新古今和歌集』の撰者の一人を担い、後には後堀河天皇の勅命を受けて『新勅撰和歌集』(※2)の単独撰者を務めた。若年より父・俊成の後継者として認められ、幽玄華麗・巧緻な歌風を展開して良経・慈円らと共に新古今歌人の代表的な存在となった。家集『拾遺愚草』他、歌論書『近代秀歌』『毎月抄』『詠歌之大概』、日記『明月記』などを著し、『小倉百人一首』撰者として現在も有名である。

晩年は歌学者としても活躍し『源氏物語』『古今和歌集』『土佐日記』などの古典の刊本あるいは写本を較べ合わせて、誤りを正し、またはその異同を調べて原本の形を再現することに心を砕いた。

 

美福門院加賀については次回に陳べる。

 

俊成卿女は祖父俊成の養女となり、内大臣源通親の息子・通具の妻となった。22~23歳頃に和歌の才能を認められて後鳥羽院に出仕して優艶微細な歌風で新古今時代の代表的な歌人の一人となる。晩年に出家して越部禅尼と称し『越部禅尼消息』では叔父定家の撰集した『新勅撰和歌集』の歌風を痛烈に批判している。

家集『俊成卿女集』を著し、最古の物語評論『無名(むみょう)草子』の作者とされている。『新古今和歌集』以下すべての勅撰集に入集している。

 

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  俊成と定家『芸術新潮1997年9月号』より

 

(※1)藤原基俊:平安期後期の歌人源俊頼とともに院政期の歌壇における指導的立場にあった。歌風は保守的で優雅だが創造性に欠けていたとされる。『金葉和歌集』以下の勅撰集に百首入集。詩歌撰集『新撰朗詠集』を著す。

 (※2)『新勅撰和歌集』:後鳥羽・順徳両院をはじめとする承久の乱関係者の歌は除かれ、九条、西園寺などの親幕派と武家の歌が優遇され、歌風は新古今の余情妖艶から退き三代集(古今和歌集後撰和歌集拾遺和歌集)の歌風に戻っているとされる。

       

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注