新古今の景色(139)院政期(114)女房歌人の発掘(13)俊成卿女(8)後鳥羽院出仕・思惑それぞれ

建仁2年(1202)7月13日、俊成卿女は後鳥羽院女房として院御所に初出仕をした。

 

この模様について藤原定家は『明月記』に

【「歌芸によって、院よりこれを召すとあり」と記し、和歌をもって歌壇で活躍することを責務とする専門歌人とし後鳥羽院から召された事を記している】

 

さらにこの初出仕は全て俊成卿の夫の源通具が沙汰し、

・通具の妹の女房高倉殿が世話をし、

・通具の手配で予め禁色(※)を得て、俊成卿女が大変名誉のある上籠女房である処遇

 を得ている。

      ※禁色:規定以外の色の衣服を纏うことを特に

          許された女房であることを示す:

対する御子左家は、俊成の命を受けて定家も初出仕に参上したが特にすることもなく、全て土御門家の主導で進められたと記している。

 

では、なぜこれほど土御門家が俊成卿女の後鳥羽院出仕に力を入れたのか、また、何故御子左家はそれを受け入れたのか、さらに当人である俊成卿女はどういう思いで出仕に踏み出したのか、推測してみたい。

 

○土御門家の思惑

 当主通親、息子通具、通定などは既に後鳥羽院歌壇で活躍し、和歌所寄人に召された者も輩出しているが、土御門家出自の女性歌人はいない。そこで、土御門家ゆかりの女性歌人として後鳥羽院の覚えが目出度い俊成卿女を後鳥羽院歌壇を代表する女房歌人として強力に押し出すことにした。

 

○御子左家の思惑

 後鳥羽院の強い要請と権門土御門家の強力なバックアップで自家出身の俊成卿女を後鳥羽院歌壇で活躍する女房歌人として押し出せるのは御子左家としても願ってもない事だった。

 

○俊成卿女の思惑

 権門の正室と言う立場だけではなく、上籠女房という破格の扱いを得て、後鳥羽院に出仕する専門歌人としての新しい道に自分を押し出してゆきたいという強い意志。

 

ところで、興味深いことに、定家は、俊成卿女が後鳥羽院に初出仕する約半年前の建仁2年2月1日の『明月記』に、【俊成、定家、通具 清談】と記している。

 

これは、推測に過ぎないが、多分この時期に進められていた通具と按察局との結婚を踏まえて、後鳥羽院から強く要請されている俊成卿女の女房出仕についてどう対応するかを話し合ったのではないかと推察される。

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                  田渕句美子 角川選書

 

新古今の景色(138)院政期(113)女房歌人の発掘(12)俊成卿女(7)後鳥羽院女房出仕の演出は土御門家

ここで、俊成卿女が土御門家の源通具に嫁いで以降の足取りを歌人としての側面から辿ってみたい。

 

20歳の頃の俊成卿女が源通具と結婚したのは、建久3年(1192)以前、むしろ建久元年(1190)頃とみられ、建久5年(1194)に女子を、正治2年(1200)に長男具定を出産した。

 

・建久5年(1194)八月十五夜に催された『九条良経邸和歌会』に歌だけを詠進したのが俊成卿女の初めての歌壇への参加で、その時の歌が『俊成卿女集』の巻頭一首におかれている。

 

正治2年(1200)9月、夫通具と俊成卿女の二人だけで五十番歌合を行い、その判を定家に依頼して『通具・俊成卿女歌合』が成立したことが伝えられている。 

 

建仁元年(1201)3月に源通親が自邸で『影供歌合※』を催した時には、後鳥羽院がお忍びで参加、その席に、俊成卿女は通親のすすめで「新参(いままいり)」という作者名で新参女房のごとく出詠して6首の内4首で勝ち、後鳥羽院を驚かせている。

 

 ※影供歌会:影供のために行う歌合。特に柿本人麻呂の影像を祀って行う歌合。

 

      下図は、人麻呂影供を描いた親鸞の曾孫・覚如の伝記絵巻『慕帰絵』藤原隆章筆                      「芸術新潮2018年9月号より」

 

 

・同年(1201)八月十五夜に催された『和歌所撰歌合』に俊成卿女は直接ではなく、詠

進のみで参加。

 

・同年(1201)夏の『院第三度百首』『千五百番歌合』に俊成卿女が詠進した歌が、翌年以降に『歌合』に仕立てられて判定された時には30人中第6位というすばらしい評価を得た。

 

・同年(1201)9月『仙洞句題五十首』に詠進して歌人としての評価を決定的にし、後に、ここでの出詠歌から下記の歌が『新古今和歌集』「恋二」の巻頭に選ばれている。

  

     五十首歌たてまつりしに 寄雲恋  皇太后太夫俊成女

1082 下燃えに思ひ消えなん煙だに あとなき雲のはてぞ悲しき

 

  ※後鳥羽院は『新古今和歌集』編纂にあたり、定家・家隆・俊成卿女の歌を各々部

   の巻頭におくように指示し、「恋二」の巻頭におかれたこの歌は彼女の代表作と

   なった。

      

そして、後鳥羽院は、『院第三度百首』『仙洞句題五十首』などの俊成卿女の作品の出来映えから、その天分に驚嘆し、彼女を自分の身近に召して歌壇に参加させる事を強く願って出仕を命じたのであった。

 

参考及び引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

          田渕句美子 角川選書

 

新古今の景色(137)院政期(112)女房歌人の発掘(11)俊成卿女(6)婚家・土御門家

祖父の藤原俊成から将来の御子左家を背負う女流歌人として育てられたと思える孫の俊成卿女は、建久元年(1190)頃に20歳で因幡守であった土御門家の次男源通具に嫁いでいる。

 

俊成卿女が、祖父俊成・叔父定家の主筋にあたる権門の九条兼実の政敵ともいえる、やはり権門の土御門家に嫁すということ自体が、私には余りにも突飛に思えたので、先ずは土御門家について調べてみた。

 

(1)権謀策術に長けた権門

 

土御門家は村上源氏。当主の源通親(久安5年~建仁2年)の父は内大臣久我雅通で母は八条院女房典薬助藤原行兼の娘。

通親は、平氏の全盛時に最初の妻を捨てて平清盛の姪を妻に迎え、平氏の支援を受けて政界に進出し、自らの地位の保全を図り、平氏が没落すると後白河院に接近し,院の孫で後の後鳥羽天皇の乳母であった高倉範子を妻に迎えて院の近臣として活躍。

さらに、後白河院寵愛の丹後局・高階栄子と結んで,範子の連れ子で通親の猶子となった在子を後鳥羽天皇後宮に入れ、在子が第一皇子の為仁親王 (のちの土御門天皇 )を産むと隠然たる勢力をもつようになる。

 

建久6年 (1195)年、源頼朝が娘大姫の後鳥羽天皇への入内を望んだ時は頼朝に接近して入内の仲立ちを画策し,翌建久7年にはそれまで頼朝に接近していた政敵の九条兼実を追い落とすことに成功(建久の変)し、頼朝の娘の大姫入内も未完に終わらせている。

 

そして、建久9年(1198)1月には、猶子在子が産んだ為仁親王土御門天皇として即位させ,天皇の外祖父,後鳥羽上皇の院司として絶大な権勢を振い、翌、建久10年には内大臣に昇り、反幕府勢力の拡大・育成に力を注いだ。

 

(2)文人の家

 

土御門家は権謀策術に長けた権門を特徴とするが(これは、俊成・定家の主筋にあたる九条家も同様)、一方で文人としてもすぐれた才能を発揮し、特に通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』は名著として名高い。

 

また、歌人の家としては、建仁元年(1201)7月,後鳥羽院院宣によって開設された和歌所の寄人として、当代の有力歌人の藤原良経,藤原俊成・定家親子ら14人の寄人が任命されたが、その中に源通親・通具の親子も含まれ、さらに、その中から「新古今和歌集」撰者として、藤原有家藤原定家藤原家隆,藤原 (飛鳥井) 雅経,寂蓮と共に源通具も選ばれている。

 

特に源通親は、若い頃の嘉応2年(1170)秋には自邸で歌合を催し、さらに同年催された「住吉社歌合」、「建春門院滋子北面歌合」及び治承2年(1178)の別雷社歌合などに積極的に参加していた。

 

参考文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                                                              田渕句美子 角川選書

    

新古今の景色(136)院政期(111)女房歌人の発掘(10)俊成卿女(5)栴檀は双葉から(※)

既に「乱世の娘」で述べたように、俊成卿女は俊成卿の娘ではなく孫娘である。彼女は、藤原俊成と、大恋愛で結ばれた美福門院加賀との間に生まれた長女の八条院三条を母とし、藤原盛頼を父として生まれた。しかし、安元3年(1177)の鹿ヶ谷の変の首謀者として、父盛頼が兄の権大納言成親が備前の児島で惨殺された事に連座して官職を解かれたことから、祖父母の俊成、美福門院加賀に引き取られ、権門の土御門家の源通親の次男・通具の妻になるまでは9歳年上の叔父の定家とともに育てられた。

 

藤原定家は『明月記』に俊成卿女の祖母で定家の母の美福門院加賀はこの孫娘を非常に可愛がったと記している。

 

しかし、俊成は、この孫娘を、俊成卿女の母の八条院三条や、建春門院に仕えて建春門院中納言と呼ばれ、その後に八条院に仕えて八条院中納言と呼ばれて『たまはるき』を著した健御前や他の娘や孫娘達のように、上皇女院に仕える女房として育ててはいない。

 

むしろ、俊成卿女は、祖父母や定家から、「源氏物語」「伊勢物語」「狭衣物語」等の物語や「拾遺集」「古今集」「後撰集」などの古典和歌集などを学ぶ機会を与えられている(このことは、後年、後鳥羽院から召されて出詠して高い評価を受けた俊成卿女の本歌取り等の作品から私が推察したのだが)。

 

さらに、俊成卿女が文治4年(1188)に俊成が撰進して完成した「千載和歌集」の編集を手伝ったと伝えられが、その時の彼女が18歳前後と思われることから、俊成は彼女の歌才を早くから見抜いて、将来の御子左家を背負う女流歌人として育てる意図を抱いていたように思われる。

 

(※)栴檀は双葉から:「栴檀は双葉より芳し」より、栴檀は発芽の頃から早くも香気があるように、大成する人は子供の時から並外れてすぐれている。

 

参考文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                           田渕句美子 角川選書

    

新古今の景色(135)院政期(110)女房歌人の発掘(9)俊成卿女(4)八十余歳の生涯で750首

相前後して後鳥羽院に見いだされて専門歌人として召された宮内卿と俊成卿女、歌壇へのデビューが15歳前後で後鳥羽院の大きな期待に押潰されてわずか5年足らずで夭逝した宮内卿、対して、後鳥羽院の期待と励ましを自信と創作エネルギー源として生涯におよそ750首を詠み八十余歳まで歌人として生き抜いた俊成卿女。

 

「乱世の娘」「乱世の妻」として生きながら、動乱の時代に何故このように強靱な生涯を貫けたのか、この事を探るために、ここで、俊成卿の生涯を俯瞰してみたい。

 

俊成卿女は承安元年(1174)に生まれ、建長4年(1252)以降に八十余歳で没したとされ、彼女が後鳥羽院に見いだされて歌壇に登場したのは三十歳頃とみられる。

そこで、俊成卿女の生涯を歌人としての生成を軸に大掴みに次のように分けてみた。

 

  第一期 (形成期) 後鳥羽院への出仕までの三十歳位まで

  第二期 (完成期) 後鳥羽院歌壇の十年間

  第三期 (進展期) 順徳天皇歌壇の十一年間

  第四期 (円熟期) 承久の乱後の十九年間

  第五期 (晩年)  越部に隠棲した十余年間 

 

参考・引用文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                              田渕句美子 角川選書

 

 

新古今の景色(134)院政期(109)女房歌人の発掘(8)俊成卿女(3)「専門歌人女房」

 

ここで『新古今和歌集』に入集した女流歌人の名前と入集歌数を一覧すると、

 

 式子内親王49首、俊成卿女29首、二条院讃岐16首、宮内卿15首、

 殷富門院大輔10首、宜秋門院丹後9首、小侍従・八条院高倉・七条院越前が各7首、

 七条院大納言3首、信濃後鳥羽院下野(ごとばいんのしもつけ))(※1)2首、

 八条院六条・参河内侍・高松院右衛門佐・七条院権太夫が各1首、

 

となり、そこから見えてくるのは、宮内卿と俊成卿女が歌壇に登場した建仁元年(1201)は、新旧女流歌人の交代期にあたっていたということであろう。

 

先ず挙げられるのは、後鳥羽院歌人として最も尊敬していた叔母の式子内親王はこの年の1月に五十歳頃で逝去し、さらに旧世代に属して、前年に七十歳位に没した殷富門院大輔を除いて、二条院讃岐・宜秋門院丹後・小侍従は既に八十歳前後で歌壇の一線から身を退くか出家をして、「念仏の妨げになる」と歌壇に召されるのを渋る者もいた。

 

次に挙げられるのは、八条院高倉、七条院越前、七条院大納言、信濃後鳥羽院下野)など、上皇女院の側近として仕える上臈女房たちで、彼女たちは、後鳥羽院の指示あるいは要望に応えて歌壇の「歌合」に詠進しただけで、後鳥羽院直属の女房ではなかった。但し、七条院越前は歌才を評価されて後鳥羽院の女房になったと「源家長日記」に記されている。因みに七条院は後鳥羽院の生母である。

 

最後に挙げる俊成卿女と宮内卿は、当初から歌才で評価されて後鳥羽院直属女房として召されて歌壇に加わった女房歌人であり、彼女たちは、後鳥羽院の日常生活に奉仕するのではなく、院直属の女房歌人として後鳥羽院歌壇で活躍することが任務とされた。

 

俊成卿女が後鳥羽院女房になった時、藤原定家は『明月記』に「それは和歌の才能によって院から召された」と述べており、このことは、「専門歌人女房」の誕生を意味している。

 

かつての、小侍従や殷富門院大輔、大きく遡って和泉式部清少納言小野小町が活躍した時代の、宮廷や後宮のサロンにおいて、日常生活の中で、社交を深める為に、あるいは、恋のやりとりとして相聞歌や贈答歌を詠む時代は去って、後鳥羽院が主導する歌壇で、宮内卿や俊成卿女に求められたのは、五十首歌・百首歌などへの出詠や、「歌合」への出詠が求められ、かつ、競技相手に勝つ力を備えた「専門歌人」としての役割であり、ここに、従来の女房歌人との大きな違いがあった。

 

(※1)信濃鳥羽院下野):社禰宣i祝部成仲の孫。允仲の娘。はじめ皇后宮に仕えたが、建仁三年(1203)頃、後鳥羽院に仕えるようになり、まもなく院の近臣であった源家長の妻となった。『新旧女流歌人』初出、2首入集。勅撰入集計26首。「女房三十六歌仙」。

 

参考文献:『異端の皇女と女房歌人式子内親王たちの新古今集

                                                                 田渕句美子 角川選書

       『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』久保田淳 校注 新潮社

 

 

 

新古今の景色(133)院政期(108)女房歌人の発掘(7)俊成卿女(2)「下萌えの少将」

離縁した夫・通具の実家の土御門家は、義父の通親と共に通具が揃って和歌所の寄人に任命されるほど和歌に長じた権門であった。

 

特に義父の通親は、若い頃の嘉応2年(1170)秋には自邸で歌合を催し、さらに同年催された「住吉社歌合」、「建春門院滋子北面歌合」及び治承2年(1178)の別雷社歌合などに積極的に参加していた。

 

また、正治2年(1200)の秋に初めて自邸で「影供歌合(※)」を催したのを機に、その後も度々催して、建仁元年(1201)3月に催された「影供歌合」に後鳥羽院がお忍びで参加した時には、通親の勧めで俊成卿女は「新参(いままいり)」という作者名で新参女房のごとく出詠して6首の内4首で勝ち、そこで後鳥羽院は彼女の歌の才能に驚いたとされる。

 

そして、その「影供歌合」から遠からずして俊成卿女は宮内卿と前後して後鳥羽院に召し出されたが、そのときの彼女は31歳、15、6歳の宮内卿とは倍の年齢差があり、その上、夫の通具は後鳥羽院乳母の従三位按察(あぜち)の許に通い、彼女の手元には一女と生まれたばかりの一男具定(ともさだ)が残されて失意のどん底におかれていた。

 

その頃の俊成卿女について和歌所の事務方責任者を勤めていた源家長は『家長日記』に次のように述べている。

 

  ~よのまじらひもむもれすぎ給(たまひ)けんに、つねに歌召されなどし給を、わかひきたるさまを、あはつけしと思ひ給らんかし~

 

 【生ひたちもあまり華やかでなく、世間とのつきあいも地味で、どちらかといえば、これまで埋もれてきたような人だが、このところ、しきりに後鳥羽院から歌の提出を求められるので、そうした事で、他の若い歌人たち(越前・宮内卿八条院高倉・七条院大納言など)と、出来映えを競うような自分を若ぶって軽率なことと考えているらしい】 

 

しかもそのときの俊成卿女は他の女流歌人のように女房名を持たず、父・盛頼がが「獅ヶ谷の変」後に復帰したときの官位が少将であった事から「少将」と呼ばれていた。

 

しかし、やがて、次の歌によって俊成卿女は「下萌えの少将」との名を轟かせることになると共に、後鳥羽院の「巻頭歌に俊成卿女の歌を据えよ」との強い(推し)によって『新古今和歌集』巻第十二、恋歌二の巻頭を飾る栄誉を賜ることになる。

 

    五十首歌たてまつりしに、雲ニ寄スル恋

                  皇太后宮大夫俊成卿女

1081 下もえに 思ひ消えなむ 煙(けぶり)だに 跡なき雲のはてぞかなしき

  【心の中であの人を思って私は死んでしまうでしよう。そしてなきがらを焼く煙で

     すら雲にまぎれて跡形もなくなってしまうでしよう。そのような恋の何と

        悲しいこと】

 

(※)影供歌合(えいぐうたあわせ):影供のために行う歌合。特に柿本人麻呂の影像を祀ってその前で行う歌合。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』久保田淳 校注 新潮社

                  『女歌の系譜』馬場あき子著 朝日選書