新古今の景色(58)院政期(33)歌林苑(23)前大僧正覚忠(3)

摂関家の次男に産まれ、端からも羨まれる僧階のトップに登り詰めながら、生母の身分故に置かれた前大僧正覚忠の立場を推量しつつ、改めて「西国巡礼(西国三十三所の観音巡礼)」の事始めとされる下記の歌を読むと、漂泊と祈りに込めた作者の思いが伝わってくるような気がする。

 

        『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

   三十三所観音拝(をが)みたてまつらんとて所々にまいり侍りける時、

   美濃の谷汲(たにくみ)にて油の出づるを見てよみ侍りける

 1211 世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり

     【世を照らすみ仏の霊験があったので、いまでも灯火は消えずに

      輝いているのだなあ】

 

ところで、前大僧正覚忠の歌の実績に目を転じると、『千載和歌集』初出で9首入集、『新古今和歌集』には1首入集となっており、ここで『千載和歌集』から3首、『新古今和歌集』から1首を採り上げてみたい。

 

        『千載和歌集』 巻第二 春歌下

     海路ノ三月尽といへる心をよめる

133 をしめどもかひもなぎさに春暮れて 波とともにぞたちわかれぬる

    【春の暮れにこの渚で春を惜しんでも甲斐のないことだよ。春は波と共に

     立ち別れていったよ】

 

           同    巻第四 秋歌上 

273 ときはなる青葉の山も秋くれば 色こそかへねさびしかりけり

    【常緑の青葉山も、秋がやってくると、まだ色こそかわらぬものの、

     流石に寂寥の景色に変化することだ】

 

           同    巻第五 秋歌下

      山寺ノ秋ノ暮といへる心をよみ侍ける

382 さらぬだに心ぼそきを山里の鐘さへ秋の暮をつくなり

    【そうでなくてさえ心細くしているのに、ここ山里で聞く寺の鐘までが

     秋の暮を告げていることだ】

  

       『新古今和歌集』 巻第六 冬 歌

571 神無月 木々の木の葉は 散りはてて 庭にぞ風の 音はきこゆる

    【十月ともなれば、木々の葉はすっかり散りはてて、梢ではなく、庭の

     落ち葉を吹く風の音が聞こえるよ】

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

        片野達郎・松野陽一 校注 岩波書店刊行

 

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

 

 

新古今の景色(57)院政期(32)歌林苑(22)前大僧正覚忠(2)生母の身分

地下の僧俗の多い歌林苑会衆の僧は殆ど遁世聖で、何故僧階のトップを登り詰めた前僧正覚忠が参加していたのか、好奇心から少し掘り下げてみる事にした。

 

千載和歌集』巻末の人名索引での覚忠についての記載は、

俗姓藤原、元永元年(1118)生、治承元年(1177)没、60才。法性寺関白忠通男。大僧正天台座主三井寺長吏、嘉応元年(1169)には三井寺で歌合を主唱しているとある。

さらに付け加えるなら、法性寺関白忠通男の息子達には四男基実・五男基房・六男兼実・十一男慈円らがいて、覚忠は次男だから彼らの兄にあたる。

 

政界のトップに君臨した錚々たる弟達と比較して、名目は摂家の次男でありながら仏教界に生きる事を余儀なくされた覚忠、この分岐点は何なのか、ここで、生母の身分と子供の身分の相関関係を知るために、ウィキペディアの「藤原忠通」の系譜を基に次のように整理してみた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%80%9A

 

正室:藤原宗子藤原宗通:正二位大納言の娘)。長女:藤原聖子は崇徳天皇中宮で後

   の皇嘉門院。三男:不明。

妻①:源信子(源国信:正二位権中納言の娘)、従二位・典侍。四男:近衛基実(近衛

   家始祖)

妻②:源俊子( 源国信:正二位権中納言の娘)。五男:松殿基房(松殿家始祖)。九

   男:信円(興福寺第44代別当)。

妻③:源俊子(源顕俊の娘)。次女:藤原育子は 二条天皇中宮

妻④:家女房加賀局(藤原仲光の娘)。六男:九条兼実九条家始祖)。十一男:

   慈円(第62世、65世、69世、71世天台座主

妻⑤:藤原基信の娘。長男:恵信、後に覚継(興福寺別当)。

妻⑥:家女房五条(源盛経の娘)。七男:尊忠。

生母不明の子女:次男:覚忠(第50世天台座主三井寺長吏・大僧正)。

※因みに妻①と妻②は姉妹。

 

こうして系譜を眺めると、摂関家の次男として生まれ、祖父の摂政関白藤原忠実や父の権力を背景に僧階のトップに登り詰めたとは言え、一家の中での兄弟間の格差がもたらす屈折感を思うと、前大僧正とはいえ覚忠が歌林苑の歌合に参加して心置きなく和歌や仲間との交流に興じたのも宜なるかなと思える。

新古今の景色(56)院政期(31)歌林苑(21)前大僧正覚忠(1)

      『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

   三十三所観音拝(をが)みたてまつらんとて所々にまいり侍りける時、

   美濃の谷汲(たにくみ)にて油の出づるを見てよみ侍りける

 

1211 世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり

     【世を照らすみ仏の霊験があったので、いまでも灯火は消えずに

      輝いているのだなあ】

 

この歌は、前大僧正覚忠が応保元年(1161)に熊野那智から御室戸まで観音霊場三十三所を巡礼した時、美濃の谷汲にある天台宗華厳寺(※1)で詠んだもので、850年を経た今日まで受け継がれている「西国巡礼(西国三十三所の観音巡礼)」の事始めとされている。

 

ところで、俊恵が白川の僧坊に開いた歌林苑には、源頼政・賀茂重保・鴨長明・二条院讃岐・殷富門院大輔などが集ったが、会の中心は「中流貴族・武士・神官・遁世者など、上流サロンに列する機会が比較的乏しい人が多く、女流歌人も含めて年配者が圧倒的で、どちらかというと在野的で時流から外れがちな層の人が参加することが多かった」とされるなかで、前大僧正という当時の大納言に準ずる最高の僧階に登り詰めた覚忠が歌林苑の会衆であったとことは、なかなか興味深いものがある。

 

華厳寺(※1):けごんじ。岐阜県揖斐(いび)郡谷汲にある天台宗の寺。山号は谷汲山。延暦17年(798)豊然開基。西国巡礼第33番目の札所。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集

           片野達郎、松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

 

新古今の景色(55)院政期(30)歌林苑(20)殷富門院大輔(3)

 

見せばやな雄島(おじま)の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず

【あなたに私の袖をお見せしたいわ。あの松島の雄島の漁師の袖さえも、濡れに

 濡れたとしても色は変わらないというのに、私の袖は、血の涙で真っ赤に

 染まってしまいました】

 

何とも情熱的なこの歌は藤原定家により『百人一首』90番に採られた殷富門院大輔の歌である。ところで殷富門院大輔と藤原定家の交流はどのようなものであったか、先ずは、定家の『明月記』の文治4年(1188)9月29日の野分(※1)の記述からたどってみたい。

 

[定家が殷富門院に参上して、女房大輔としばし歓談しているうちに、気がつくと周囲に人がいなく余りの静けさに退出しようとしたところに、定家の友人で歌人の藤原公衛(※2)がやってきて「寝ようとしても、強い風の音や、庭の木の葉の落ちる音がうるさくて眠れないので騎馬でやってきた」という声に、大喜びした女房達があちこちの部屋から集まって、狂言(戯れ言)・連歌・和歌などで一夜を明かした]

 

このような若い貴族と女房達との交遊は殷富門院(後白河院皇女亮子内親王)御所では日常の光景で、そんな中で、応保2年(1166)生まれの若い定家は、大治5年(1130)生まれの多作で「千首大輔」と呼ばれた年上の女房歌人から歌の面で大きな影響を受けたとされる。

 

次に歌の面での二人の繋がりを定家の家集『拾遺愚草』から探ってみたい。

 

   殷富門院、皇后宮と申しし時、まゐりて侍りにしに、権亮(公衛)・大輔など

   さぶらひて、夕花といふことをよみしに

 つま木こりかへる山ぢのさくら花あたら匂をゆくてにやみる

 

次に定家が大輔と共に摂津の四天王寺に参った時に詠んだ歌から

   文治之此、殷富門院大輔天王寺にて十首歌をよみ侍りしに、月前念仏

 西を思ふ涙にそへてひくたまに光あらはす秋の夜の月

 

さらに、『拾遺愚草』には、文治3年(1187)に大輔から求められて定家が詠んだ百首歌が「皇后宮大輔百首」として収録されている。

 

建久4年(1193)2月に定家が母の美福門院加賀の喪に服していた折に大輔が弔問の歌を贈った事も付け加えておきたい。

 

(※1)野分(のわき):210日・220日頃に吹く暴風。台風。あるいは秋から初

冬にかけて吹く強い風。

 

(※2)藤原公衛(ふじわらのきんひら):保元3年(1158)生まれ建久4年(1193)36才にて没。公季流、右大臣公能の四男。極官は従三位左近中将。俊成・寂蓮・定家ら、御子左家歌人と親交があった。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』4首入集。家集『三位中将公衡卿集』。

 

参考文献:『ビギナーズ・クラシック日本の古典 百人一首(全)』

         谷 知子編 角川文庫

     「藤原定家の時代-中世文化の空間-」五味文彦著 岩波新書

新古今の景色(54)院政期(29)歌林苑(19)殷富門院大輔(2)

殷富門院大輔は、藤原定家西行源頼政・寂蓮(※1)・隆信(※2)など多くの歌人と親交を深めたとされるが、ここでは寂蓮・隆信との交流の一端を紹介したい。

 

嘉応2年(1170)の『住吉社歌合』は、和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭・藤原敦頼が催したもので、歌題「社頭月」・「旅宿時雨」・「述懐」の三題を殷富門院大輔・小侍従、中務少輔定長(後の寂蓮)を含む50人の歌人が番えて競ったもので、判者は藤原俊成であった。


この歌合から当時は前斎宮大輔と名乗っていた殷富門院大輔と定長が競った「述懐」から、定長の出家への迷いが感じられるとされる次の歌を採りあげたい。

 

       左勝       前斎宮大輔
すみよしのなごのはまべにあさりして けふぞしりぬるいけるかひをば

【住みよしという名で名高い、住吉の名児の海の浜辺で魚や海藻などをとって、

今日生きている価値を知ったことだ。】

 

       右        定長

なげかじな よはさだめなきことのみか うきをもゆめとおもひなせかし

【嘆くことはないことよ。この世の中は無常であることだけであろうか。

憂きことをも夢と思うことにせよ。】

 

判詞       藤原俊成
左歌、こころしかるべし、すがた又ひとつの体なるべし、右歌も、ひとつの俗にちかきすがたなれど、ことのみか、と、おき、なせかし などいへる、なほ むげにすてたることばなり、左をこそはかつと申すべく

【左の大輔の歌は、趣がふさわしい。表現の方法もまた一つの様式である。右の定長の歌も、一つの世俗的に近い表現の仕方であるが、「ことのみか」と置き、「なせかし」と読んでいる。やはり捨てた表現である。左の大輔の歌を勝ちとするのがふさわしい。】

 

次に『殷富門院大輔集』から、定長が出家する直前の承安2年(1172)に詠まれたとされる、殷富門院大輔・定長・隆信の間で交わされた贈答歌を引用したい。

 

   9月つごもりに、ひとびと秋のわかれをしむうたどもよまれしついでに
ゆく秋のわかれはいつもあるものを けふはじめたる心ちのみする
【去って行く秋との別れは毎年あるものを、今日初めてのような気持ちばかりすることよ】

 

    かくてものがたりなどしくらして、かへられしに
たづねくるかひこそなけれゆく秋の わかれにそへてかへるけしきは
【訪れて下さった価値がないことよ。去って行く秋との別れに加えて、帰って行く様

子は】

 

    かへし         右京権大夫たかのぶ
ゆく秋のわかれにそへてかへらずは なにゆゑきみがをしむべき身ぞ
【去って行く秋との別れと共に帰らなかったら、どうしてあなたが惜しんでくれる我 が身であろうか】

 

    又           なかつかさのせうさだなが
かぎりあらむ 秋こそあらめ我をだに まてしばしともいはばこそあらめ
【秋には終わりがあるから良いのであろう。私にもうしばらく待ってほしいとのことであれば結構であるが、そうでなければ秋と共に帰ることよ】

 

まさに、この贈答歌の頃の定長と隆信が、鴨長明が『無名抄』「64 隆信・定長一双のこと』で述べた二人の力が伯仲した時期に該当するのであろうか。

https://k-sako.hatenablog.com/entries/2015/05/01

 

(※1)寂蓮:俗名は定長(藤原):保延5年(1139頃)〜建仁2年(1203)。長家流。僧俊海の息子で伯父俊成の猶子となるが定家の出生により出家して寂蓮と称す。中務少輔従五位上。和歌所寄人。『新古今和歌集』撰者となるが撰進前に没、35首入集。享年六十余歳。

 

(※2)藤原隆信:康治元年(1142)〜元久2年(1205)。長良流、為経の息子。母は美福門院加賀で定家の異父兄。右京権太夫正四位下。似絵(肖像画)の名手。晩年に出家して号を戒心。和歌所寄人。『新古今和歌集』3首入集。享年64歳。

 

参考文献: 『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(53)院政期(28)歌林苑(18)殷富門院大輔(1)

 

鴨長明の時代の「女房」とは宮中や院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた高位の女官を指し、現在のキャリアウーマンを意味した。彼女たちは内裏や院御所に出仕して天皇中宮上皇女院の傍近くに仕え、時に高位貴族たちと丁々発止のやり取りを交わしながら、同僚女房とは切磋琢磨して競い合う日々を生きたのである。

 

当時の最高権力者の後鳥羽院が、和歌の復興を高く掲げ、特に女流歌人の輩出を推進した事もあって、鴨長明は「無名抄」に歌壇で評価の高かった幾人かの女房歌人についてに記しているが、ここでは歌林苑の主唱者・俊恵法師の言葉を引用した大輔(殷富門院大輔)と小侍従について述べてみたい。

 

65 大輔・小侍従一双のこと

 

「近年の女流歌人の上手としては大輔と小侍従が歌壇で取りざたされています。大輔の方は歌に対する理論や知識の習得などに特別に力を入れ、飽くことなく何時でも何処でも粘り強く歌を詠む姿勢が優れています。

 

対する小侍従は、聴く人がはっと目を見張るような華やかな状況を読むことに優れており、贈答歌においては贈られてきた元の歌からまさにこの事こそが肝心だと思われるところをおさえて返歌を詠む心映えは誰も敵うものがありません」

と、俊恵法師は私に申しました。

 

因みに殷富門院大輔と小侍従は母方の従姉妹にあたる。

 

殷富門院大輔((いんぷもんいんのたいふ)は生没年不詳であるが、大治5年(1130)頃に生まれ、正治2年(1200)頃に70才で没したとされる。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)に出仕し、建久3年(1192)の女院落飾に従い出家。女房三十六歌仙の一人。家集『殷富門院大輔集』、『千載和歌集』初出で5首入集、『新古今和歌集』10首入集。

 

次に入集歌から『千載和歌集』から1首、『新古今和歌集』から3首を掲げてみた。

 

       『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二

741 思ふこと忍ぶにいとど添ふものは 数ならぬ身の歎きなりけり

    【思い悩むことを人目につかぬようにこらえているのに いよいよ加わるの 

     は物の数でもないわが身の歎きであるよ】

 

       『新古今和歌集』 巻第一 春歌上

    百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる

73 春風の 霞吹きとく 絶えまより みだれてなびく 青柳の糸

   【一面にたなびいている霞を春風が吹いて解(ほど)く、その絶え間から、糸の

    ように乱れて靡く青柳よ】

 

       『新古今和歌集』 巻第八 哀傷歌 

     久我(こがの)内大臣(源雅道)春の頃うせて侍りける年の秋、土御門(つ

     ちみかどの)内大臣源通親)、中将に侍りける時に、つかはしける

790 秋深き、寝覚めにいかが、思ひ出づる はかなく見えし 春の世の夢

    【現代語訳:秋も深まったこのごろの寝覚めに、あなたはどのようにお思い出

     しのことでございましよう。お父様が春の世に見る夢のようにはかなくお亡

     くなりになったというお悲しみを】

 

       『新古今和歌集』 巻第十三 恋歌二

     題しらず

1228 何かいとふ よもながらへじ さのみやは、憂きにたへたる 命なるべき

     【現代語訳:どうしてそうお嫌いになるのですか、とても生き永らえること

      はできないわたしですのに。命はそれほどつらさに堪えていられるもので

      しようか】

 

 

参考文献:『無名抄 鴨長明』久保田淳 訳注 角川文庫

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

     

(※)当ブログで参考文献の活用などでいつもお世話になっています東京大学名誉教

   授で国文学者の久保田淳氏の文化勲章受章を心からお喜び致します。

新古今の景色(52)院政期(27)歌林苑(17)二条院讃岐

わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし

【私の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、

あの人は知らないでしようが 悲しみの涙で乾くひまもありません】

 

上記は、二条院讃岐が二条院の内裏歌壇にデビューし内裏御会などに参加していた頃に出詠して「沖の石の讃岐」と称されるほど高い評価を得た歌で、後に『小倉百人一首』並びに「『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二」にも採られている。

 

 

二条院讃岐は源頼政の娘で仲綱の同母妹。生没年は未詳だが、永治元年(1141)頃に生まれ、若い頃に二条院に出仕し、二条院没後は九条兼実の娘で後鳥羽院中宮(宜秋門院)任子に仕え、後に出家して健保5年(1217)に76歳で没したとされる。因みに宜秋門院丹後は従姉妹にあたる。家集『二条院讃岐集』。

 

二条院讃岐の歌人としての足跡は、永万元年(1165)頃に藤原顕輔が私撰した『続詞花集』に入集したのを始め、後鳥羽院花壇では正治2年(1200)の「正治初度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合(※1)」に名を連ね、『千載和歌集』に4首、『新古今和歌集』では式子内親王、俊成卿女に次ぐ16首が採られている。

 

下記は『新古今和歌集』入集歌から。

 

                                巻第二 春歌上

                百首歌たてまつりし時、春の歌に

130 山たかみ 峯のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空

    【山が高いので、激しく吹く峯の山風に花が散り、

                 その花吹雪が月を曇らせている明け方の空】

 

 

                                 巻第六 冬 歌 

               千五百番歌合に、冬の歌

590 世にふるは 苦しきものを 真木の屋に 安くも過ぐる初しぐれかな

             【この世を生きてゆくのは苦しいことなのに、真木の屋にいかにも心安く音を

                たてて通り過ぎてゆく初しぐれですね】

 

(※1)千五百番歌合:後鳥羽院が当代の30人の歌人に百首ずつ詠進させて千五

百番とし、俊成、定家、良経、顕昭慈円など十人に判をさせた歌合。建仁2年(1202)から翌年にかけて成立。『新古今和歌集』の和歌資料となった。

 

参考文献:『新古今歌人論』安田章生著 桜楓社

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版