ところで『新古今和歌集』の著者略歴から長寿者をピックアップしているうちに藤原道長の子女の長命さに目を留めることになった。
陽明門院禎子内親王(孫)82歳 1首 三条天皇の皇女、後朱雀天皇皇后
藤原道長自身は62歳で病没しているが当時としては長寿と云えるのではないか。しかも娘の上東門院とともに『新古今和歌集』に5首も入集していることは、和歌所寄人を務めた内大臣源通親の6首入集と比較しても遜色が無く、和歌の才能に秀でていたことを示している。
道長の家集『御堂関白集』は道長の歌と明記された7首を含めて、妻倫子、娘の中宮彰子と妍子、息子の頼宗、道長家や中宮の女房や近親、親交のある人など道長を巡る人々と交わした歌74首の歌が収められており、日常生活と和歌が溶け込んでいたことを示している。
しかしここで取り上げたいのは87歳の長寿を保った娘・上東門院彰子の存在である。彼女は一条天皇の中宮であり、妹・妍子の夫の三条天皇の義姉であり、後一条天皇・後朱雀天皇の母であり、後冷泉天皇・後三条天皇の祖母として、32歳で崩御した一条天皇亡き後5代の天皇の後見として重きをなしていた。
まさに、この上東門院の存在があってこそ、道長は天皇の外戚としての地位をフルに活用して、天皇の後継を自らが指名するという絶大な権力を手中にし「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」の栄華を築く事が出来たのであった。
ところが道長の息子の頼通にとっては、自らが外戚となる後冷泉天皇に皇子が誕生しなかったことから、何としても認めたくなかった生母が道長の外孫の陽明門院腹の皇子が後三条天皇に即位することになり、これ以降は上皇が天皇の頭越しに統治する院政に向かってゆく事になる。
参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社