ここまで『新古今和歌集』入集歌人をとりあげてゆくとやはり女性歌人にも目を向けなくてはならないだろうと思い、以下に享年が70歳以上の女性歌人10人を入集数と共に拾い上げてみた。
2 成尋阿闍梨の母 82歳 1首 入唐僧の母
3 俊成卿女 82歳 29首 俊成の孫、後鳥羽院女房
3 陽明門院禎子 82歳 1首 後朱雀天皇皇后
道長妻倫子及び上東門院女房
5 小侍従 80歳 7首 石清水別当の娘、
二条院・高倉院女房
7 二条院讃岐 76歳 16首 源頼政娘、二条院女房
9 美福門院加賀 70歳 1首 定家の母、美福門院女房
9 慇富門院大輔 70歳 10首 後白河院皇女慇富門院女房
この一覧からとりわけ目を惹くのは、俊成卿女、赤染衛門、小侍従、二条院讃岐、美福門院加賀、慇富門院大輔の6人の女房歌人である。そして定家の母で父俊成とのラブラブの相聞歌で『新古今和歌集』に一首採られた美福門院加賀を除いて、5人の女房歌人は揃って専門歌人として高い評価を得ていた。
そんな彼女たちの詠草スタイル、あるいは当時の歌壇の評価については、鴨長明が『無名抄』の「65 大輔・小侍従一双のこと」、「66 俊成卿女・宮内卿 両人歌の詠みやうの変はること」、「70 式部・赤染勝劣のこと」で見事に活写している。
その中で興味深いものを挙げると、まずは「66 俊成卿女・宮内卿 両人歌の詠みやうの変はること」で、俊成卿女と比較された宮内卿は後鳥羽院の期待に応えようと頑張りすぎて結局命を縮めて20歳になるかならないで夭折し、82歳過ぎまで長寿を全うした俊成卿女と際だった対照を見せている。
次には、「70 式部・赤染勝劣のこと」で、後世の私達にとっては和歌の名手として圧倒的に高い評価を受けているのは和泉式部であるが、当時の歌壇では、数々の歌合わせで赤染衛門は常に和泉式部よりも高く評価されたただけでなく、和泉式部は選から漏れる事も度々であったとされる。
どうやら和泉式部への評価は歌の出来不出来よりも、二人の兄弟親王と浮き名を流した「浮かれ女」としての身持ちの悪さが、身持ちの正しい赤染衛門との対比でマイナスに作用していたようだ。
とは云え、和泉式部は上東門院の女房として、赤染衛門は道長室倫子と上東門院の女房として仕えて、共に後宮の文化サロンを重視した道長の庇護を受けたのであった。当時は摂関家が和歌文化のパトロンであった。
それに対して、俊成卿女、小侍従、二条院讃岐、慇富門院大輔は新古今歌壇を代表する女房歌人であった。その中で、小侍従、二条院讃岐、慇富門院大輔が、鴨長明が師と仰ぐ俊恵が催す歌林苑(※)の会衆であったことは興味深い。
(※)歌林苑:六条源家の俊恵が自らの白川の僧坊に開いた歌会のグループの総称。保元元年(1156)頃から約20年間に亘り、藤原清輔、源頼政、藤原隆信、賀茂重保、寂蓮、鴨長明、二条院讃岐、小侍従、殷富門院大輔などが集った。会の中心は地下の僧俗にあり、月例の歌会の他、会衆(メンバー)の送別の会、人麿影供など臨時の歌会もしばしば催された。
参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社