和泉式部の『和泉式部日記』は、帥宮の死後に、生前の帥宮と親しかった道長の勧めによって書かれたとされている。
その『和泉式部日記』は、冷泉天皇の第三皇子の為尊親王と愛し合った和泉式部が、為尊親王の急逝に伴い、彼女を見舞った弟君の帥宮(敦道親王)との間で燃え上がった新たな恋の始まりから親王の邸宅に二人が同殿するまでの成り行きを綴ったものである。
式部が帥宮の邸宅に同殿といっても、あくまでも宮に仕える侍女であって、しかも宮の乳母からの「親王ともあろうお方が夜中に女の許に出歩くのはいかがなものか。であれば、宮のそば近くに召し使わせれば」との忠告に従っただけの事であった。
しかし、このことが、帥宮の北の方(大納言左大将の次女で姉は東宮女御)が居たたまれずに里邸に退去する事態を引き起こし、前恋人為尊親王の喪中でありながら、一介の召使いが正妻を差置いて愛の勝利者となったとして大スキャンダルとなり、和泉式部は「浮かれ女」としての悪名を宮廷に轟かせる事となった。
にもかかわらず、道長は、帥宮との愛の経緯を書くことを和泉式部に勧めて、そのために娘の小式部ともども中宮彰子に出仕させたのであった。
さらに道長は、息子頼通を祝した「頼通大饗屏風」の和歌に女性歌人ではただ一人和泉式部を選んでいる。
『国文学 解釈と観賞 1985年7月号』 至文堂