『平家物語』第三十八句「頼政最後」は頼政の死の場面を次のように述べている。
〔宮(以仁王)を南都へ先発させ申して三位入道(頼政)以下は平等院の外に留まって敵を近づけぬように矢を射るものの、三位入道、八十歳になって戦をして右の膝口を射られて「もはや最後」と思い「自害せん」と平等院の門の内に退く。
(略)
三位入道は平等院の釣殿にて従者の渡辺長七唱(となう)を召して、「我が首とれ」と命令すれば、従者は涙を流して「御首、このままでは頂戴できません。せめてご自害なされたならば」と申せば、入道は「げにも」と、鎧を脱ぎ置き、声高に念仏を唱え、最後の言こそあわれなれ。
【むもれ木のはなさくこともなかりしに みのなるはてぞかなしかりける】
[現代語:埋もれた木にも似た我が生涯に花咲くような思い出もなかったが、こうして身のなる果てはかなしいことだ]
と、この歌を最後にして、太刀の切っ先を腹に突き立て、倒れかかり、背後まで太刀を貫ききって命を終えられた。
従者の渡辺長七は泣く泣く三位入道の首を掻き落として直垂の袖に包み、敵陣を逃れて「誰にも見せまい」と石にくくりつけて宇治川の深いところに沈めけり〕
これに対して、源平合戦の末に源氏に追い詰められた平家の総大将平知盛の入水場面を『平家物語』第百五区「早鞆」は次のように述べている。
〔新中納言知盛は、伊勢平氏の伊賀の平左衛門家長を召して【もはや見るべきものは見た、今はこれまで】と、鎧二領身につけて、手を取り組み、海にぞ入りける〕
この知盛入水の場は歌舞伎でも最も見所のある場面の一つ挙げられ、私事で恐縮だが、私の大好きな仁左衛門の舞台では、髻を切ってざんばら髪の知盛が、華麗な衣装に身を包み、重い碇を両手に高く掲げて、思い切り地を蹴って後ろ向きに壇ノ浦の海に飛び込む。
追い詰められて死に直面しての、頼政の【むもれ木のはなさくこともなかりしに みのなるはてぞかなしかりける】と、知盛の【もはや見るべきものは見た、今はこれまで】の言葉の間には大きな開きがある。
頼政のそれには、実ることのなかった生涯への「無念」さが、知盛のそれには、権力を思いのままに行使し、かつ、栄華を極めた者の「達観」が。
参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 上』水原 一 校注 新潮社版