新古今の景色(33)院政期(8)源頼政(8)平家物語(1)昇殿の歌・三位の歌

私の一方的な見方かもしれないが「平家物語」には源頼政について語る部分が多いように思われる。何故だろう。語り継ぐ琵琶法師達の中に頼政に感情移入した者が少なからずいたからではないか。

 

源頼政(1104年~1180年)は、武将としては破格の三位(さんみ:公卿)に上り詰め、その後に出家して家督を嫡男に譲り、通常ならば楽隠居を決め込んでも良い年齢であるにも拘わらず、治承4年(1180)に77歳にして以仁王を奉じて平家討伐の兵を挙げて宇治平等院で敗死するも、彼が諸国の源氏に呼びかけた「以仁王の令旨」は源平合戦の引き金となり平家滅亡に結実した。

 

他方で彼は、重代の京武士歌人としての家を引き継ぎ、『詞花和歌集』以下の勅撰集に61首入集した歌人であったことも、華のある武人としての人間性が愛されたのであろうか。

 

そこで、「平家物語」を引用しながら、頼政人間性を浮き彫りにしてみたい。

 

平家物語』第四十句「鵺」は、

「そもそも、この頼政と申すは」で始まり、

頼政が摂津守頼光から5代の後胤三河守頼綱の孫、兵庫守仲政の子であると続く。

 

頼政は、保元の乱では後白河天皇方についていち早く戦場にかけつけたものの期待したほどの勲功に与らず、さらに、平治の乱では後白河法皇の寵愛する藤原信頼側に属する同族の義朝を見切って二条天皇側に付き、平清盛が指揮を執る官軍側に加わったものの、清盛一族が目映いばかりの勲功を与えられたのに対して頼政はわずかな恩賞に甘んじるほかはなかった。

 

それ以後の頼政は、頼光以来源氏重代の職としての大内裏の宿直警固の役を担って長年仕えたものの、昇殿を許されないために地下人(殿上人に対して)に甘んじたまま老齢に到る中で、述懐の和歌一首を詠んで昇殿を許されたと伝えられる。

【人知れず大内山のやまもりは 木(こ)がくれてのみ月を見るかな】

(現代語訳:大内山の山番である私は、誰にも知られずひっそりと木の間越しにばかり

      月を仰いでおります)

 

頼政はその後も四位(しい)の身分でしばらく仕えていたが、常に三位への加階に望みをかけつつ

  【のぼるべきたよりなき身は木(こ)のもとに しゐをひろひて世をわたるか

   な】 

  (現代語訳:よじのぼるべき手づるもない私は しかたなく木の根元で椎の実を拾

        って世をすごしております)

と詠じて治承2年(1178)念願の従三位に昇叙したと伝えられる。

 

頼政がその翌年に出家をして家督を嫡男の仲綱に譲って宇治平等院で敗死したのは77歳の時であった。

 

ところで、頼政従三位昇叙は破格の扱いであったようで、九条兼実は『玉葉』に「第一之珍事也」と記している。これは、頼政を信頼していた清盛が長年の忠義に報いて推挙した結果であるが、如何せん、この時の頼政は74歳に達していた。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 上』水原 一 校注 新潮社版