新古今の景色(31)院政期(6)源頼政(6)内昇殿への渇望

源頼政白河院政が開始されて19年目に当たる長治元年(1104)に仲政を父として誕生したが、参議以上の官、あるいは従三位以上の位階の補任を記した『公卿補任』によると、頼政の官僚としての経歴は白河院の時代に六位の判官代からスタートし、崇徳天皇時代の保延2年(1136)には蔵人に補されて従五位下に叙され、それ以降は保元の乱(1156)までは鳥羽院政下の官僚を務めた。

 

そして、頼政保元の乱を迎えたときには頭に白いものを頂く53歳に達しており、他方で彼よりも14歳若い平清盛は保元・平治の乱で勲功を立てて鳥羽院から取立てられ、さらに微妙な情勢下に上手く立ち回って二条天皇の後ろ楯となったことで、六条天皇即位の翌年の仁安元年(1166)には内大臣、その翌年には太政大臣に昇り、時は「平氏にあらずんば人にあらず」の時代に突入していた。

 

清盛から厚い信頼を得ていたとは言え頼政の処遇は清盛が内大臣に叙された仁安元年は正五位下に、翌年に清盛が太政大臣に昇った時は従四位下に叙されただけで、後白河院への昇殿は許されるも、大内(内裏)は警護を任されただけで内昇殿(※1)は許されず、自分より遙かに若い平家の公達が我が物顔で殿上を行き来する姿を眺めながら忸怩たる思いで務めをはたしていたようだ。

 

次に頼政の当時の心情を詠んだ歌を採りあげてみた。

 

いまだ殿上を許されぬる事をなげき侍りしに、二条院の御時(二条天皇の時)3月10比(日)に行幸なりて南殿(なでん)の桜さかりなりけるを一枝おらせて、

去年(こぞ)と今年といかがあると仰せ下さりて侍りしかば、枝にむすびつけてまいらせ侍ける。 

〔よそにのみ思ふ雲井(※2)の花なれば 面影ならで見えばこそあらめ〕

 

かへし   丹波内侍 

〔さのみやはおも影ならでみえざらむ 雲井の花に心とどめば〕

 

次は『新後撰集』に採られた贈答歌

 

いまだ殿上ゆるされざりける時、雪のふりける日清涼殿にさしおかせ侍りける 

〔いかなれば雲の上にはちりながら 庭にのみふる雪をみるらむ〕 

 

かへし   よみ人しらず 

〔心ざしふかくも庭につもりなば などか雲ゐの雪もみざらむ〕

 

(※1)内昇殿(ないしょうでん):うちのしょうでん。清涼殿の殿上(でんじょう)の間に出仕すること。

 

(※2)雲井(くもい):雲位。宮中。皇居、内裏。

 

参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館