平安時代に台頭した武士階級の中でも早くから京に昇り、いち早く公家貴族と積極的な接触を図り、強い絆を築いたのは源満仲の子の頼光・頼信ら清和源氏であった。
【清和源氏・源頼政の直系略図】 源満仲→頼光→頼国→頼綱→仲政→頼政→仲綱
なかでも源頼光が進出した頃の中央政界は、藤原道長の全盛期で、道長の娘で一条天皇に入内した上東門院のサロンは、パトロンである道長の財力によって紫式部・和泉式部・赤染衛門などを擁して絢爛たる後宮文化が咲き誇っていた。
そうは云っても当時の都は、内裏や館を一歩出れば放火・殺傷・強盗など百鬼夜行が日常で、皇族や摂関家と云えども身辺警護に武士を伴わなければ外出もままならず、そのうえ、当時から武装化を強めて朝廷を悩ませていた寺社勢力の僧兵を制圧するためにも中央政界は武士の力を必要としていたのである。
そんな中で、藤原道長の土御門邸が火事で焼失して新築に及んだ時、源頼光が家具一式を献納して周囲を驚かせているが、その財源は但馬・美濃・伊予・摂津など豊かな任地の受領を歴任して蓄えたもので、この任用自体が道長の頼光への配慮を示していた。清和源氏は早くから摂関家に密着していたのである。
その頼光は、大江山の酒呑童子や土蜘蛛胎児の伝説で知られる武勇だけでなく、歌人としても広く知られ、宮廷歌人に伍して勅撰集『拾遺和歌集』には、
〔なかなかに云ひも放たでしなのなる 木曾路のはしのかけたるやなど〕
〔かくなんとあうのいさりびほのめかせ いそべの波のおりもよからば〕
の2首が入集し、その他に『金葉和歌集』で連歌が、『後拾遺和歌集』で1首入集している。
参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館