新古今の景色(25)女房文学(18)赤染衛門(10)長寿の生涯歌人

長和元年(1012)2年ばかり病に伏していた夫の大江匡衡が61才で世を去り、この時赤染衛門は56歳であったが、宮廷ではおしどり夫婦として「匡衡衛門」と呼ばれる程仲睦まじかった夫を失ったのを機に出仕を辞し、落飾して信仰に生きながら母親として、歌人として、長寿を全うした。

ここでは、晩年の赤染衛門の母として、歌人としての足跡を辿ってみたい。

 

匡衡の死後1~2年を経た頃に夫を偲んで詠んだ歌

   大江匡衡みまかりて又の年の暮花をみてよめる

【こぞの春ちりにし花も咲にけり 哀れ別れのからましかば】(詞花)

 

   上東門院にまいりて一条院に匡衡御書きをしへたてまつりし程のことなど

   昔物かたり啓してまかりけるあしたにたてまる

【いととしく又ぬれそひし袂かな 昔をかけておちし涙に】

   かへし(上東門院)

【うつつとも思ひわかれて過ごす哉 みし世の夢を何語りせん】

 

寛仁2年(1018)後一条天皇の御世、息子・大江挙周(たかちか)が和泉守に補される除目に先だって息子の出世を望んでかつての主の道長の妻倫子に贈った歌、

【思へ君かしらの雪をうち払ひ きえぬさきにと急ぐ心を】 

 

その後、息子の挙周が和泉守を去るとき病に倒れ、母親の気持ちを読んだ歌

【代はらむと思ふ命はをしからで さてもわかれむことぞかなしき】(詞花)

 

寛仁4年(1020)娘の一人を亡くして逆縁のかなしみを

   むすめなくなりたりしに服すとて

【我がためにきよと思ひしふぢごろも 身にかへてこそ悲しかりけり】 

 

長元6年(1033)赤染衛門が77歳の時、後一条天皇が催した道長の妻・鷹司殿倫子の七十の御賀の屏風歌を関白頼通に召されて8首詠じた歌から、

   たかつかさ殿のうへの御賀関白殿のせさせたまふとて  

  臨時客

【むらさきの袖をつらねてきたるかな 春たつことはこれぞ嬉しき】(後拾遺)

  子日

【万世のためしに君がひかるれば 子の日の松もうらやみやせむ】(詞花)

 

長元8年(1035)5月16日、関白藤原頼通が主催した賀陽院水閣歌合(かやのいんすいかくうたあわせ)で、80歳の老尼の赤染衛門は、藤原公任、能因、相模ら錚々たる10人の歌人と共に出席、この時の女性の出詠は赤染衛門と相模の二人だけであった。  

 

そして、歌合という公の場での赤染衛門が最期に確認されたのは、長久2年(1041)後朱雀天皇の御世の弘徽殿女御十番歌合の出詠で85歳であった。

また、同年に曾孫大江匡房が誕生し、その喜びを家集「赤染衛門集」から、

〔雲の上にのぼらむまでもみてしかな、鶴の毛衣年ふとならば〕

 

その5年後の永元元年(1046)に息子・挙周が没したが、息子の死を嘆く歌は確

認されていないので、赤染衛門はそれ以前に没したと思われる。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編