新古今の景色(12)女房文学(5)清少納言のパトロンは道長か(1)

長徳元年(995)4月 中宮定子の父・中関白道隆が43才で急逝

長徳2年(996)正月 道隆の息子伊周と隆家の従者が花山法皇に弓を射る

         4月 伊周と隆家は九州に左遷され、定子の母方も失脚して

                                          中関白家は壊滅状態に。

         5月 左遷を拒み中宮御所に潜伏していた伊周・隆家を道長

                                           厳しく追補。定子は落飾。

         7月 道長左大臣になり全権を一手に掌握

 以上は、清少納言が長徳2年の秋頃から4ヶ月に亘る里居(実家暮らし)に至る中宮定子の身辺に生じた出来事でである。

これにより、伊周・隆家を道長方に密告したのは誰かと、中宮に仕える女房の間に猜疑心と中傷が渦巻き、さらに将来の安定を望んで道長方に通じる者も生じる中、新参者で一条天皇・定子に一目も二目もおかれていた清少納言は嫉妬混じりの疑いをかけられ、それに堪えられなくなり里居を決意した。

 

その里居の出来事を描いた「枕草子:79段」では、

 

別れても尚「兄(しょうと)・妹(いもうと)」と呼び合う前夫の左衛門則光が清少納言の里居を訪れて世間話をするうちに、

「昨日宰相の中将斉信が参内されて『少納言の居そうなところを知らないわけがないだろう』としつこく聞かれて知らぬふりをするのにたいへんでしたよ。

 

身に覚えのあることを抗弁するのは随分苦しいものだ。あやうく口を割りそうになったのだが、傍にいた左の中将(源経房)が全く知らぬ顔をしているのを見て、もし彼と目が合えば笑い出しそうになってしまうので、食事時でもないのに目前の台盤にある若布をドンドン頬張ってごまかしてしまった」とのエピソードと共に、

 

道長方に通じているのではとの同僚の猜疑心・詮索・中傷が渦巻く中で耐えきれなくて里居(実家)をするに当たって、前夫の則光や源経房・源済政といった限られた人だけに居場所を教えておいたと記している。

 

ここで注目すべきは、源経房・源済政は道長に極めて近い人物で、特に経房は道長とは母方の従兄弟の関係であるとともに、「栄華物語」によれば道長の御子(猶子)のような関係にあった。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 枕草子 上』 萩谷 朴 校注