新古今の景色(74)院政期(49)歌林苑(39)藤原敦仲~道因の息子

道因(※1)の息子の藤原敦仲(あつなか)は、生没年未詳で本名が憲成。父の道因(俗名・敦頼)の極官が従五位上右馬之助に対して敦仲の極官は従五位下式部大輔であった。治承2年(1178)『別雷社歌合』に出詠。道因は『現存集』(散失)を撰したのを継いで敦仲は『続現存集』(散失)を撰した。『千載和歌集』初出、2首入集。

 

次に藤原敦仲の『千載和歌集』の入集歌を引用したい。

 

          『千載和歌集』 巻第三  夏歌

   大宮前太政大臣藤原伊通)の家にて、夏ノ月秋の如しといへる心をよめる

218 小萩原まだ花さかぬ宮木のの 鹿やこよひの月になくらむ

    【一面の小萩がまだ花をつけぬ宮城野の鹿は、

                  今宵の月に秋を感じて(妻を恋うて)鳴くのだろうか】

 

          『千載和歌集』 巻第十九  釈教歌

1244 恨みけるけしきや空にみえつらん 姨捨山(をばすてやま)を

     照らす月かげ

     【恨んでいた様子が空に見えたのだろう。姨捨山(※2)を慈悲の月光が

      照らしている。授記(※3)されない叔母の恨みを釈迦は察して、慈悲の

      光で包んであげているのだ】

 

(※1)道因入道(だういんにゅうどう):俗名は藤原敦頼。寛治4年(1090)生まれで没年未詳。承安2年(1172)出家、治承3年(1179)には90歳で生存、寿永元年(1183)頃までには没。治部丞清孝の息子、従五位上左馬助。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、勅撰集40首入集。『千載和歌集』20首、『新古今和歌集』4首入集。 

下記参照: 

     https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2021/01/21/163638

     https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2021/02/04/105402

 

ところで資料を当たっているうちに、「広田社歌合」と「住吉社歌合」は道因が勧進したことが分かった。注目すべきは「広田社歌合」が催された承安2年(1172)は道因が出家した年であった。

 

(※2)姨捨山(おばすてやま):長野県北部、長野盆地にある山。正称は冠着(かむりき)山。田毎(たごと)の月で有名。棄老伝説の地。

 

(※3)授記:授記とも。〔仏〕仏が弟子の未来の成仏について予言すること。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

              片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

 

新古今の景色(73)院政期(48)歌林苑(38)参河内侍(2)西行と二条院追悼

参河内侍は二条院に出仕していた頃は既に歌人として知られ、二条院から求められて詠んだ歌が『新古今和歌集』に採られている。 

 

          『新古今和歌集』 巻第七 賀 歌

    二条院御時、南殿(なでん)の花の盛りに、歌よめと仰せられければ

733 身に代へて 花も惜しまじ 君が代に 見るべき春の かぎりなければ

    【わが身にかえて、花を惜しむこともいたしますまい。我が君の

     御代に花を見るはずの春は これからも限りなく訪れましようから】

 

しかし、この歌に込めた「君が代に 見るべき春の かぎりなければ」の願いは、永万元年(1165)7月28日に、二条院が病の末に20代前半の生涯を終えたことで断たれることになった。

 

参河内侍の叔父・寂超が著わした『今鏡(※)』に「良き人は時世におはせ給はで、久しくもおはしまさざりけり」と記されたように誠に短い生涯であったが、和歌の保護者として望みをかけていた二条院の死を惜しんだ西行は、二条院の葬儀から50日余りすぎた頃に、院の墓を訪れ次の歌を霊前に捧げた。

 

  今宵君死出の山路の月を見て 雲の上をや思ひ出づらん

  【忌み月明けの今宵 君は死出の山路の月を見て 雲の上(雲居:宮中、皇居)を

   思っておられるでしよう】

                                  

さらに西行は二条院に仕えていた参河(三河)内侍と次のような歌を交わしている。

 

      御跡に三河内侍候ひけるに、九月十三夜、人に代わりて 西行

  隠れにし君が御影の恋しさに 月に向ひて音をや泣くらん

 

      返し                        内侍

   我が君の光隠れし夕より 闇にぞ迷ふ月は澄めども

 

続いて、『千載和歌集』に入集した参河内侍の歌を引用したい。

 

          『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二

        忍ブル恋の心をよみ侍りける

740 衣手(ころもで)に落つる涙の色なくは露とも人にいはましものを

    【わが袖に落ちる涙が紅涙でなかったならば、これは露ですと人に

     言いまぎらわしたでしように】

 

          『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四

        寄浦恋といへる心をよめる   二条院内侍参河

879 待ちかねてさ夜も吹飯(ふけい)の浦風に 頼めぬ波のを(お)とのみぞする

    【恋人の訪れをまちかねて夜も更ける吹飯の浦の浦風に、思う人ならぬ

     当てにもさせない波の音ばかりがすることだよ】

 

          『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

                       二条院参河内侍

1087 いかで我(われ)ひまゆく駒をひきとめて むかしに帰る道をたづねむ

     【何とかして私は、速やかに過ぎる時をとめて、昔に帰ってみたい】

 

(※)今鏡:歴史物語。藤原為経(寂超)の著。(1170)頃成立か。十巻。『大鏡』の後をうけて、万寿2年(1025)~嘉応2年(1170)、後一条天皇から高倉天皇まで13代145年間の本紀・列伝・拾遺を老女の話す体にした本。

 

参考文献: 『西行と清盛~時代を拓いた二人』 五味文彦著 新潮選書

      『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

              片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

 

新古今の景色(72)院政期(47)歌林苑(37)参河内侍(1)寂念の娘

 

院政期は出家・遁世の時代でもあった。父あるいは夫が遁世したとき妻子の人生はどのような影響を受けるのか、は、私の関心の一つである。

 

例えば、保延6年(1140)、23才の若さで突然出家遁世して周囲を驚かせた西行には妻と幼い娘が居たが、西行の妻は夫の意志を受け容れて西行が拠点とした高野山のふもとの天野という比丘尼(出家して具足戒を受けた子女、尼僧)などが住むところに遁世したが、幼い娘は将来の事も考えて家督を譲った弟に任せていた。しかし、3年ほど経て西行が様子を見に行ったところ、娘が粗末な身なりで下働きをさせられていたのを見て心が痛み、娘に出家を諭して母と同じ庵に住まわせた、と、鴨長明の『発心集』は記している。

 

歌林苑会衆の参河内侍(三河内侍 みかわのないし)は、保延6年(1140)頃、藤原為業(法名:寂念(※1))の娘として生まれた。父の寂念は藤原北家長良流、丹後守で藤原俊成の岳父であった歌人の藤原為忠の次男で、同じく出家した兄の寂超・弟の寂然と共に大原三寂・常磐三寂と呼ばれ、特に寂超と寂然は西行との親交で知られていた。

 

父の出家に伴い参河内侍は兄の権僧正範玄の猶子となり、藤原定隆と結婚して建春門院新中将を育てる傍ら、二条天皇の内侍、松殿基房の女房、後白河院女御琮子に仕えて兵衛佐とよばれ、夫の定隆没後は女御の兄権中納言実綱と再婚、公仲・七条院大納言を生み、正治2年(1200)には61才で生存したと伝えられている。

 

この世を見限って出家遁世した寂念と異なり、権僧正となった息子範玄と娘の参河内侍は、乱世の世を肯定的に受け容れて生きたようだ。わけても、参河内侍は結婚においても、働く女性としても、前向きに人生を切り拓いて生きたように私には見える。

 

(※1)寂念:平安時代後期の僧・貴族・歌人。俗名は藤原 為業(ふじわら の ためなり)。生没年未詳、永久2年(1114)頃生まれ、寿永元年(1182)頃まで存命とされる。藤原北家長良流、丹後守・藤原為忠の次男。官位は従五位上・皇后宮大進。保元3年(1158)頃に出家。同じく出家した兄弟の寂超・寂然と共に大原三寂・常磐三寂と呼ばれた。通称は伊賀入道。若い頃より父・藤原為忠が主催する歌合に度々参加し、九条兼実や藤原重家・俊恵・源頼政平忠度等とも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。『千載和歌集』初出、1首入集。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 方丈記・発心集』三木紀人 校注 新潮社版

     『西行と清盛~時代を拓いた二人』 五味文彦著 新潮選書

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

              片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

 

新古今の景色(71)院政期(46)歌林苑(36)藤原教長~崇徳院歌壇の残像

藤原教長(のりなが)は天仁2年(1109)に師実流大納言忠教(※1)と大納言源俊明の娘との間に生まれ、参議左京大夫正三位に昇りつめたが、崇徳院(※2)近臣であった事から保元の乱後に出家したものの捕らえられて常陸へ配流、応保2年(1162)召還され、治承4年(1180)頃没したとされる。法名観蓮。治承2年(1178)『別雷社歌合』出詠。家集『貧道集』。『才葉集』、注釈書『古今和歌集註』を著わす。『詞華集』初出、『千載和歌集』10首入集、『新古今和歌集』1首入集。

 

藤原教長の勅撰集入集歌には崇徳院が催した『久安百首』(崇徳院御百首とも)の出詠歌が少なくない。その中から幾つか採り上げてみたい。

 

          『千載和歌集』 巻第三 夏歌

              崇徳院に百首の歌たてまつりける時よめる 前参議教長

155 たづねても聞くべきものを郭公(ほととぎす) 人だのめなる

    夜半(よは)の一声

    【尋ねても聞くべきことだったのに。ほととぎすよ、人を当てにさせる

     夜半の一声だったよ】

 

          『千載和歌集』 巻第十三 恋歌三

       百首歌たてまつりける時、恋の心をよめる 前参議教長

800 恋(こひ)しさは逢ふをかぎりと聞ききしかど さてしもいとど思ひ添ひける

    【恋しい気持ちは逢えば落ち着くものと聞いたけれど、逢ってから後の方が

     一層思いの増すものであるよ】

 

次の『千載和歌集』釈教歌の教長の1217、1218の前には1216に崇徳院御製歌が配列されているのでそのまま引用。

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       百首歌めしける時、普門院、弘誓深如海(つくぜいじんにょかい)の

       心をよませたまうける           崇徳院御製

1216 誓ひをば千尋の海にたとふなり つゆも頼まば数に入(い)りなん

     【観世音菩薩の誓願を、千尋の深海に譬えている。ほんの少しでも

      頼めば、救われる衆生の数の中に入るであろう】     

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       崇徳院に百首歌たてまつりける時、華厳経の心をよめる 前参議教長

1217 はかなくぞ三世(よ)の仏と思ひける 我身ひとつにありと知らずて

     【愚かなことに、仏は三世諸仏として様々に在るものと思っていた。

      我身一つの中に在るとしらないで】

 

          『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

       即身成仏の心を

1218 照る月の心の水(みづ)にすみぬれば やがてこの身に光りをぞさす

     【照る月が心の水に澄んでいるので、それがそのままこの身に光を射し

      さながら仏になったようだ】 

 

         『新古今和歌集』 巻第一 春歌上

       崇徳院に百首歌たてまつりける時、

       春の歌        前参議(まえのさんぎ)教長

13 若菜つむ袖とぞみゆる春日野の 飛火(とぶひ)の野べの雪のむらざえ

   【若菜を摘む人の白い袖のようだなあ、春日野の飛火野の野辺の、

    雪がむら消えしている様は】

 

ところで、『千載和歌集』は寿永2年(1183)後白河法皇院宣により藤原俊成が文治3年(1187)に撰したもので、一条天皇以後200年間の『後拾遺集』に洩れた歌より撰集されている。

 

その背景を念頭に置くと、『千載和歌集』撰進下命者の後白河法皇が、骨肉相食む皇位争いから讃岐に配流せざるを得なかった同母兄の崇徳院の出詠歌23首、及び『久安百首(崇徳院御百首)』から教長を含む少なからぬ出詠歌を容認したことに私は感慨を覚えずにはいられない。

 

自らは和歌よりも今様に耽溺した後白河法皇は、29才で即位するまで「即位の見込みのない皇子」として長い間部屋住み(居候か)を余儀なくされていた。その中には「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と自分を酷評した兄の崇徳院との同居も含まれていた。

 

千載和歌集』を透して、兄崇徳院歌人としての才能を評価し、かつ当時の歌壇を代表した「崇徳院歌壇の残像」を記しておきたいとする後白河法皇の思いを読み取るのは「後白河院狂い」を自認する私の深読みであろうか。

 

(※1)大納言忠教:藤原忠教。承保元年(1076)~永治元年(1141)、享年66才。関白太政大臣師実の息子。正二位大納言。『堀河院艶書合』作者。管弦に秀でる。『金葉和歌集』初出、『千載和歌集』1首入集。

 

(※2)崇徳院(すとくのいん):第75代崇徳天皇。讃岐院と呼ばれる。元永2年(1119)~長寛2年(1164)、享年46才。鳥羽天皇第1皇子、母は待賢門院璋子。実父が曾祖父白河院であることが誘因となり保元の乱を起こして讃岐に配流となり配所で没す。『久安百首』主催。『詞花集』下命者。『詞花集』初出、『千載和歌集』23首入集、『新古今和歌集』7首入集。

『久安百首』の出詠歌人は、崇徳院、藤原公能、藤原教長藤原顕輔、藤原秊通、藤原隆季、藤原親隆、藤原実清、藤原顕広(俊成)、藤原清輔、待賢門院堀河、上西門院兵衛、待賢門院安芸、花園左大臣家小大進の14名。

 

 参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

新古今の景色(70)院政期(45)歌林苑(35)素覚

素覚法師の俗姓は藤原家基。長家流、伯耆守藤原家光男の息子で生没年未詳。伊綱(歌林苑会衆)及び、尾張(※1)の父。出家前の官位は刑部少輔従五位下。永暦元年(1160)~嘉応2年(1170)頃に出家したとされる。

主な参加歌合は、出家前の永暦元年(1160)「大皇大皇宮大進藤原清輔歌合」、出家後の嘉応2年(1170)「住吉社歌合」及び承安2年(1172)「広田社歌合」。勅撰集入集は、藤原家基として『千載和歌集』初出、『千載和歌集』5首入集、『新古今和歌集』2首入集。

 

素覚についての詳細を知る手がかりは殆ど現存していないが、次の歌から出家前には藤原家基として白河院に仕えていたことが窺える。

 

          『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

       述懐の歌よみ侍りける時、むかし白河院につかうまつりける事を

                          思い(ひ)でてよめる     藤原家基 法名素覚

1081 いにしへも底に沈みし身なれども猶(なほ)恋(こひ)しきは白川の水

     【昔も沈淪不遇の身ではあったが、それでもやはり恋しく偲ばれるのは

      白河院の御代のことだ】

 

この歌を私なりに深読みすれば「白河院に使えた時も出世の見込みもなく不遇ではあったが、それでも下級貴族なりに仕事と働く場所はありそれなりに満たされていた」か。

 

ここで、素覚の他の勅撰集入集歌を以下に記しておきたい。

 

         『千載和歌集』 巻第三 夏歌 藤原家基

173 浮雲のいさよふ宵(よひ)のむら雨(さめ)に を(お)ひ風しるく

    にほふたち花

    【浮雲がただよう宵に降る村雨の中で、追風にもはっきりと薫る橘の香りよ】

 

         『千載和歌集』 巻第十六 雑歌上 

       月ノ歌十首よみ侍りける時よめる

990 小夜千鳥吹飯(ふけゐ)の浦にを(お)とづれて絵島が磯に月かたぶきぬ

    【夜が更け、千鳥が吹飯の浦に鳴きながら渡ってきて、波路の彼方の絵島の磯

     に月がかたぶいたことだ】

 

         『新古今和歌集』 巻第十 羈旅歌

      初瀬に詣でて帰さに、飛鳥川のほとりに宿りて侍りける夜、

      読み侍りける

986 ふるさとへ 帰らむことは 飛鳥川 渡らぬさきに 淵瀬たがふな

    【いよいよなつかしい故郷へ帰るのは明日だ。飛鳥川よ、私が渡らないうちに

     淵瀬を変えるようなことはしないでおくれ】

 

         『新古今和歌集』 巻第二十 釈教歌

      悲鳴〔口+幼〕咽(ひめいいうえつ) 痛恋本群(つうれんほんぐん) 

      【『摩訶止観(※2)』巻第七下の句。生死を解脱できない衆生

       悲しみ  を、群を離れて鳴く鹿に譬える】

1956 草深き 狩場の小野を 立ち出でて 友まどはせる 鹿ぞ鳴くなる

     【草深い狩場の野を出て、友をまどわせる、群からはぐれた鹿の

      鳴いている声が聞こえるよ】

 

さて、前大僧正覚忠から登連・道因・空仁・素覚と歌林苑会衆の出家・遁世僧のプロフィールを観てきたが、関白家の出自で天台座主を務めた前大僧正覚忠を除くと下級貴族・神祇官が占めている。

 

以上から、これまで朝廷や摂関家及び高級貴族の警護役に過ぎなかった粗野な武士階級が急速に政治権力の一角を担うまで台頭する「武者の世」の到来に直面して、長い間安定していた下級貴族の将来は暗澹としたものになった事が読み取れる。

 

その先駆者は、伝統ある武勇貴族で鳥羽院の北面を務めていた佐藤義清(後の西行)が、同年の成り上がり武士の平清盛が同じ鳥羽院の上流北面を担い、その後急速に権力を掌握して行く様を間近に眺めて、自らの行く先は修羅場と見極めて若くして出家した事からも推し量れるのでは無いか。

 

(※1)尾張(おわり):皇嘉門院に勤める女房歌人。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』に1首入集。

 

(※2)摩訶止観(まかしかん):仏書。594年、随の智顗(ちぎ)の講述を潅頂が筆録。十巻。天台三大部の一。天台宗の勧心(かんじん)を説き修行の根拠となる。天台止観。天台摩訶止観。

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

     

新古今の景色(69)院政期(44)歌林苑(34)空仁(4)最晩年の西行の評価

空仁の消息を伝えるほぼ唯一とも云える西行の語りを記した『残集』から、あくまでも西行の視点で空仁像を描いてきたが、最晩年における西行が空仁を偲んで語った次の言葉はなかなか意味深長である。

 

   申(まうし)続くべくもなきことなれども、空仁が優(いう)なりしことを

   思ひ出でてとぞ、

   この頃は昔の心忘れたるらめども、歌は変(かは)らずとぞ、うけたまはる、

   あやまりて昔には思ひあがりてもや

 

   【わざわざ言い伝えるほどのことでもなけれども、和歌・連歌についてのこれま

    での言葉は、空仁が「優」であった事を思い出して語ったものだ。しかし、今

    は歌は相変わらず上手であるが、初心を忘れてしまったように思える。昔の

    歌のうまさは、物のはずみで、つい心が高ぶっていたからであろうか】

  

なるほど、空仁が晩年に詠んだと思われる次の二首からは、出家前の西行の心を動かした張り詰めた思いを感じる事は出来ない。

 

          『千載和歌集』  巻第十八 雑歌下

       山寺に籠もりて侍りける時、心ある文を女のしばしばつかはしければ

       よみてつかはしける

1196 を(お)そろしや木曾の懸路(かけぢ)の丸木橋ふみ見るたびに

     を(お)ちぬべきかな

     【恐ろしい事だ、木曾の桟道の丸木橋は、踏んでみる度毎に落ちてしまい 

      そうだ(文を見るたびに堕落しそうだ)】

 

          『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四

877 秋風の憂き人よりもつらきかな 恋(こひ)せよとては吹かざらめども

    【秋風は、つれない人よりも思いやりがないものだなあ、恋をせよといって吹

     くわけではないのであろうが、秋風が吹くと人恋しくてならないよ】

 

そう言えば、西行の出家は西住と法輪寺の空仁を訪れた翌年の保延6年(1140)の秋であったが、遁世後には鞍馬、東山に庵を結び、その後は30年近く高野山に腰を据えていた。

 

しかし、治承3年(1179)11月に清盛が後白河院政を停止したことから伊勢国二見浦の山寺に拠点を移し、後に伊勢大神宮に奉納する企画として、俊成・定家・家隆・慈円・寂蓮・祐盛・蓮上・寂延らの歌を収載した『二見百首』を編んでいるが、そこには近くに住む空仁は含まれていない。

 

ここで、私の推測を述べると、空仁と西行の出家の動機は大きく異なっていたので、晩年の空仁のあり方が西行のメガネに叶わなかったのは致し方ない。

 

西行の出家・遁世は極めて自主的・意志的で遁世後の行動も明確な方針に基づいているが、空仁の場合、突発的な出来事で前途が狂わされ、失意の底で遁世を選んだ。

 

ここで再び、西行の出家に大きな影響を与えたとされる空仁の歌をふりかえると、

 

        『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

      世を背かんと思ひ立ちける此(ころ)よめる

1119 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになれば悲しかりけり

     【このように憂き我が身であるが、すっかり世を捨て切ってしまおうと思う

      状況に立ち至ると悲しい】

 

この歌からは、追い詰められて現状から逃れるための遁世を願う心境が窺えるが、とても西行のような意志的・積極的な心境は読み取れない。

 

むしろ晩年の空仁の歌からは、押し潰されそうな重荷から解放された軽さが立上ってくるように思える。

 

引用文献:『西行全家集』久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫

     『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

             片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『西行と清盛~時代を拓いた二人』五味文彦著 新潮選書

     『西行覚書』粟津則雄 思潮社

 

 

新古今の景色(68)院政期(43)歌林苑(33)空仁(3)西行の出家

 

出家前の西行と西住が空仁を訪れて過ごした法輪寺は、嵯峨の大井川の近くにある虚空蔵菩薩を本尊とする寺で、この時、空仁が籠もって法華経の暗誦に励んでいたように、法輪寺は初学の人が籠もって学問の成就を祈る寺としても知られていた。

 

ところで、出家前の空仁が詠んだ次の歌は西行の出家に大きな影響を与えたと伝えられている。

 

        『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中

      世を背かんと思ひ立ちける此(ころ)よめる

1119 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになれば悲しかりけり

     【このように憂き我が身であるが、すっかり世を捨て切ってしまおうと思う

      状況に立ち至ると悲しい】

 

この歌を詠んだ時の空仁の俗名は大中臣清長、父の定長は権大副従四位下、父の伯父で養父の公長は伊勢神宮の最高位祭主を務めていた。

 

ところが公長は伊勢で起こった殺人事件の責任を問われて伊勢神宮祭主の執務を停止された。その間、京都の司法側は公長の責任を訴えた神人側の言いがかりとみていたようだが、審議を先延ばしている間に公長は病死し、その養子の定長も神事への奉仕を禁じられていたため、世に知られていた名家は一気に崩壊し、その時、六位であった清長は失意のどん底に突き落とされたのである。

 

何事も起こらなければ、清長はいずれ父の養父公長・そして父の定長の後を継いで伊勢神宮の祭主を受け継ぐはずであったが、突発的な殺人事件の責任を問われ大中臣家は神事への奉仕を停止されたため、清長は神祇官の道を捨てて出家を志向するに至り、武官への道を捨てて出家しようとしていた義清(西行)はこの歌に自らの心を重ね合わせたのであろう。

 

そして出家した西行は次の歌を詠んでいる。

         『山家集』 中 雑

       世を遁れける折(おり)、ゆかりありける人のもとへ言ひおくりける

726 世の中をそむきはてぬといひおかん 思ひ知るべき人はなくとも

    【たとえ私の心を知ってくれそうな人はいなくとも、言い残しておこう】

 

ところで、空仁の歌人としての素質は、父・定長の養父で伊勢神宮の祭主であった公長から受け継いだとされている。その公長の歌は『金葉和歌集(※1)』に5首、『御裳濯和歌集(※2)』に7首入集している。

 

(※1)金葉和歌集(きんようわかしゅう):源俊頼の撰により編纂された勅撰和歌集。全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集に当たる。

 

(※2)御裳濯和歌集(もすそわかしゅう):鎌倉中期に成立した、伊勢内宮祠官の寂延撰『御裳濯和歌集』は、伊勢神宮関係の和歌を中心として、伊勢国に関係のある人物の詠作を類聚した私撰集である。西行勧進「二見浦百首」や伊勢内宮法楽「四季題百首」などを含み、和歌史的に貴重な価値をもつ。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

        片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『西行覚書』粟津則雄 思潮社

     『西行と清盛~時代を拓いた二人』五味文彦著 新潮選書

     『西行全家集』久保田淳・吉野朋美 校注 岩波文庫

 

参考web:

https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100972 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86